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今週のローズンゲン 2017/09/03~09/09

2017-09-09 10:53:12 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/09/03~09/09

2017 日々の聖句 9月3日(日)
彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。(ネヘミヤ8:8)

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。(使徒28:30~31)

私の黙想:
先ず新約の聖句から、このときのパウロ、本当に楽しかったのだと思う。「全く自由に何の妨げもなく」という一句がそれを示している。教会からのしがらみもなく、経済的にも誰にも負担をかけることもなく(今で言うと年金だけで)、旅行することもなく、向こうから来るやってくる人を歓迎し、聖書の話をする。
今日の聖句はネヘミヤ記から、滅多に取り上げられない書であるが、イエスの時代から初期の教会の原型を形作った時代である。そこでの祭の日(多分、仮庵祭)でも中心的な行事である。その頃、人びとは日常語はアラム語に変わっておりヘブライ語がわかりにくくなっていたのであろう。だから、祭司たちがそれを翻訳しながら読んだのだと思う。そして、さらにそれをその時代における意味に解釈した。仮庵祭だとすると、荒野における放浪時代を振り返る記事が読まれたのだと想像する。
「人々はその朗読を理解した」と言われている。この「理解した」を岩波訳では「理解させた」と訳している。この部分文語訳では「その誦むところを之に了らしむ」と書き、よむを普通の読み方ではなく朗誦と書き、「理解」を「了承」という意味に解している。いかにも古い文章であるが、もともと日本の学問とは漢文の文書を「朗誦」し、それを学生は「復唱」し、「了承」した。つまり頭で理解しただけではなく自分たちの生き方として了解したことを示している。これは儀式を中心にした礼拝というよりも、聖書研究の基本姿勢を示していると思われる。そういう文化を背景に文語訳は成立した。「読書百遍意自ずから通ず」という姿勢であろう。これはユダヤ教の文化にも通じる。

2017 日々の聖句 9月4日(月)
モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た。(出エジプト35:29)

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。(ルカ6:38)

私の黙想:
要するに、今日の聖句は神を礼拝する場所の備品、装飾等を整えるための「献品」ないしは「捧げ物」への要請である。人びとはかなりの高価な貴重品、宝物をもっていたようだ。エジプトの地で奴隷のような生活を強いられていた彼等が、これだけの財産をもっていたこと自体不思議であるが、恐らくこれは彼等他出エジプトする際にエジプト人の弱みにつけ込み、かなりの者を「略奪」したのであろう(出エジプト12:35~36)。彼等はこの略奪行為を「主の意志によりモーセの命令に従った」と言い訳をしている。確かに彼等の主はその行為を認めたのであろうが、ここで「彼等の主」はきっちりと召し上げる。どうやら「彼等の主」の勘定帳はしっかりしているようである。しかも、そのことについて、彼等は「進んで心から」捧げたのである。実は、その前に、十戒が授与されたとき、モーセの下山が遅いのを見て、モーセは「逃げた」と思い、モーセの兄アロンを立てて、金の雄牛の像を造り彼等の神としたという事件がある(出エジプト32章)。その時も彼等は彼等の財産の中から「金」を捧げている。今日の聖句は、彼等の財産について、いろいろなことを考えさせられる。ここでは一応「彼等の」としておくが、本当は「私たちの」という意味である。

2017 日々の聖句 9月5日(火)
主よ、わたしたちの主よ。あなたの御名は、いかに力強く全地に満ちていることでしょう。(詩8:2)

神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずくのです。(フィリピ2:9~10)

私の黙想:
今日の聖句における「全地に」、すべての人間の世界であり、自然界に輝く神の栄光ではない。だから「神」ではなく「御名」である。特定の固有名詞としての「神の名」である。ということになると、それはまだ実現していない、課題としての「全地」である。昔の人はそれを「地の果て」と言ったが、現代人である私たちには「地の果て」という観念はない。むしろ、私たちが住んでいる、生きている、共に社会を形成している世界である。ここに「御名」を満たす課題が、私たちのテーマである。その意味では「神の御名」は「力強く全地に満ちている」とは言えない。「向こう三軒両隣」が私たちにとっての課題である。

2017 日々の聖句 9月6日(水)
わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。(ダニエル9:18)

わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのです。(使徒15:11)

私の黙想:
「嘆願」ということば、口語訳ではサムエル上13:12で一回用いられているだけだが、新共同訳では旧約聖書で7回用いられている。勿論、普通に通じる日本語ではあるが、恐らくプロテスタント諸教会ではなじみのない言葉であろう。聖公会では祈祷書の中に「嘆願」という祈りがあり、1年間でしばしば用いられる祈りである。祈祷書では「嘆願」について、「嘆願は、一般の祈願と代祷とから成る。教会では、聖餐とその他の礼拝において祈りと交わりと共にするだけでなく、嘆願を用いて広く世界のすべての人のために代祷をするのを常としている。日曜、水曜、金曜、昇天前祈祷日に歌いまたは唱える。その他のときに用いてもいい」と説明されている。内容は非常に充実している。
聖公会の人びとは、「嘆願」という言葉を読むと、それを思い起こす。もちろん、今日の聖句での「嘆願」はそれを意味しているのではないだろう。今日の聖句でのポイントは「正しいからではなく」という一句にある。これは嘆願だけではなく、すべての祈りに共通する基本的な姿勢の問題で、いわば祈りの根拠を示す言葉であろう。しばしば、他人のために祈るとき「上から目線で、憐れみ深く」祈ることがある。「あの罪人を赦してください」などと(ルカ18:9以下)。しばしば、祈れるということが「特権」であるかのように思っている人にである。この一句はそういう姿勢を戒めているのであろう。

2017 日々の聖句 9月7日(木)
御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑になりながらなお、無傷でいられようか。(ヨブ9:4)

どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。(黙示録3:3)

私の黙想:
考えて見れば当たり前すぎるほど当然のことであるが、これは頭で理解することではない。この事実を「そうだ」と納得するまでには時間がかかる。ところで、この文章、口語訳ではかなり違う。「彼は心賢く、力強くあられる。だれが彼にむかい、おのれをかたくなにして、栄えた者があるか」。もっとも大きな違いは「無償でいられようか」というマイナス的表現と、「栄えた者があるか」というプラス的表現だ。どっちが正しいのか、私は判定する能力はない。気分としては口語訳の方がぴったりくる。フランシスコ会訳では「神に抵抗して無傷でいたものがあろうか」。ここでは「神に抵抗する」ということが入ってくる。だから「無傷」も理解できる。新改訳は面白い。「神に身をこわくして、だれがそのままですむだろうか」。「身をこわくして」って面白い表現だ。ついでに文語訳を見ると「誰か神に逆らいてその身やすからんや」、まぁ伝統的な解釈だろう。
こうなると関根先生の訳が気になる。「誰が彼に挑戦して無傷であり得よう」。私がもっとも信頼する岩波訳では「彼は心の賢者で、力は強い。そんな方に挑戦して、誰が無傷のままでいられよう」。
最近14歳の棋士、藤井4段が森内9段から実況テレビにおける公式戦で勝ったという。勝負はやってみないとわからない。ひょとしたらヨブもヤハウェに勝つかも知れない。そんな雰囲気の表現だ。むしろ、負けても名誉は下がらない。
ここの文脈では、ヨブはそんなこと百も承知であえて神に挑戦しているのだ。負けて当たり前。しかし、ヤハウェに負けたって、もうすべてはヤハウェに取り上げられたのだ。もはや何も失うものはない。傷ついたってかまわない。男子たるもの勝負無しでは引き下げれない、という気迫を感じるのは私だけだろうか。

2017 日々の聖句 9月8日(金)
アダムと女が、主なる神の顔を避けて、(園の木の間に)隠れた。(創世記3:8)

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5:8)

私の黙想:
今日の聖句、旧約の聖句と新約の聖句とを組み合わせて読むと面白い。罪を犯したアダムと妻とは神の姿が見えたのだ。心が清くないのに神が見えたのだ。そう、これをどう解釈する。まぁ、正統なところでは罪を犯したが、まだ神による判決が降っていなかったということだろう。ということは、罪が神を見えなくするのではなく、神が見えなくなったのは神による判決の結果だと言うことになる。このときアダムと妻とは神から身を隠した。ということは逆に言うと、神の姿が見えなくなったという神による判決は「恵み」なのだ。神をいつもいつも目の前に見ているとしたら、たまったものじゃない。この「屁理屈」わかりますか。
さて、今日の聖句では、日々の聖句の編集者は括弧の中を省略している。ということでへそ曲がりの私、今日の黙想は、この点を考える。エデンの園において「園の木」は重要な役割を担っている。園の木の実は何でも食べてもいいといわれた。但し、一本だけは食べてはならないと命じられたことはご承知の通りだ。ここでアダムは、つまり人類は「園の木」の新しい利用方法を発見したのだ。それは神から隠れる場所として利用した。何という罪深いことか。神さまが与えてくださった「恵みの木」を神さまから身を隠すことに利用している。それこそが人間の罪ではないのだろうか。この「屁理屈」わかりますか。いや〜、聖書って読み方次第で面白いですね。

2017 日々の聖句 9月9日(土)
どうか、天から見下ろし輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですかあなたの熱情と力強い御業は。(イザヤ63:15)

イエスの言葉:わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。(ルカ12:49~50)

私の黙想:
「どこにあるのですか」、今日の聖句のポイントはここ。ところがここを非違の聖句では短縮して「どこですか」と書く。これはとんでもない編集だ。預言者はヤハウェに対して言う。「あなたの熱情と力強い御業は、どこにあるのですか」。これは厳しい反語で、この地上のどこにも、あなたの栄光が現れていない、という。文語訳では「今いづこにありや」と「今」を強調している。関根訳では「あなたの腸(はらわた)の反転いまは何処ぞ」、「腸の反転」という生々しい言葉が読む者の気持ちを揺さぶる。そして、ヤハウェは今、その「たぎる思いを押さえている」(新改訳)という。預言者はここではヤハウェの気持ちと完全に同化している。世界の現実を見て、心の底から怒りに燃えている。が、神はそれを今は我慢している、と預言者は感じている。岩波訳では以上を集約して「どこにあるのでしょうか、あなたの熱愛とあなたの大能は。あなたの腸(はらわた)のたぎる思いと憐れみとは。わたしに対して押さえられているのでしょうか」。
今のこの世界の状況を天からご覧になって、神はどう思って居られるのか。それが見えてこない。預言者は苛立っている。きっと神も苛立っているに違いない。それならなんとかしてください。何故、そのお気持ちを押さえておられるですか。まさか、預言者である「私」に気を使っておられるのではないでしょうね、と訴えている。こんな激しい言葉を聖書の中で読むとは、私は朝から驚いている。

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