ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/07/12~07/18

2015-07-18 11:32:56 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/07/12~07/18

2015日々の聖句 07月12日(日)
終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ2:2,4)
兵士も、「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねると、ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。」と言った。(ルカ3:14)
私の黙想:
預言者イザヤに示された終末の日の幻想。この句の直前の言葉「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする」はすべての兵器が無用になった世界を述べているし、今日の聖句は、完全平和を述べている。そして世界国家思想が語られ、世界経済も軍事力もすべてがエルサレムを中心にして回る(7節)と言う。これは終末における究極の平和な世界であろうか。6節ではそのエルサレムを神は見捨てられ(6節)、エルサレムには世界中の偶像に満ちているという(8節)。9節以降では徹底的に非人間的な世界が描かれている。
ここに描かれている平和な世界とは、徹底的に非人間的な世界である。そこでの世界平和とは一国の軍事力と経済力とに依存した平和である。ここまでリアルに世界の行末を見据えた上で、最後に「人間に頼るのをやめよ、鼻で息をしているだけの者に。どこに彼の値打ちがあるのか」(22節)という人間不信の言葉で閉じられている。

2015日々の聖句 07月13日(月)
衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。あなたたちの神、主に立ち帰れ。(ヨエル2:13)
徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。(ルカ18:13)
私の黙想:
宗教というものは、悔改め(懺悔)という個人の心の最も奥での出来事でさえ儀式化してしまう。洗礼も然り、聖餐式も然り。その内で最も空洞化しているのが、洗足式であろう。見ていて、そのバカバカしさに、笑ってしまう。イエスは言う。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(マルコ12:38~40)。
今日の聖句の「衣を裂く」というのも儀式化された懺悔であろう。

2015日々の聖句 07月14日(火)
行くがよい。主がお前と共におられるように。(サムエル上17:37)
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ4:7)
私の黙想:
戦う勇気を失った自国の大人たちを背に、一国の命運を背負って、敵国の豪傑ゴリアトとの一騎打ちに向かう少年ダビデに、自分の防具を着せて送り出すときのサウル王の偉そうな言葉。結局、サウル王の防具も武器も役に立たず、それらを脱ぎ捨て、裸同然の姿で手慣れた玩具のような投石袋を手にして立ち向かうことになる。自分の防具や武器がそれほど立派なら、それを着慣れているサウル王自身がゴリアトと一騎打ちをすればいいではないか。そうすることも出来ず、怖気づいて「後方で」武器だけ提供する。言葉だけ偉そうに、一介の羊飼いの少年に自国の命運を任せる。まるで、どこかの国の様なものではないか。「主がお前と共におられるように」というぐらいなら、あんたが言ったらどうなのか、と言いたくなる。

2015日々の聖句 07月15日(水)
君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。(詩146:3)
イエスの言葉:盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。(マタイ15:14)
私の黙想:
当然のことであるが、どの翻訳を見ても主旨は変わらない。こうなると表現力の差が問題である。それぞれに、いろいろ工夫していることはわかる。その中でも、フランシスコ会訳(新改訳もほとんど同じ)はビシットまとめている。「君主たちに頼ってはならない。救う力のない人間に」。特に「無能な指導者」を目の前に見せつけられている時、誰も彼を信頼しない。それはいわば当然である。そこで問題になるのは、「頼る」ことの内容である。この場合は「救い」あるいは「救済」、勿論それは「魂の救い」ではない。そんなこと君主により頼むはずがない。ここで問題になるのは、社会生活上の様々な問題であろう。学生なら、奨学金やアルバイト。会社員なら労働条件やサラリー。親なら子どもの教育や将来の問題。そういうさまざまな問題を誰により頼んでいるのであろうか。そういう問題を上司、さらにその上の上司に寄り頼んで大丈夫か。ダメだ、と今日の聖句は言う。それでは誰か。この詩篇では5節以下の部分で、結局「主に寄り頼め」という。この場合、「主に寄り頼む」とはどういうことであろうか。ここでマルクスなら「労働者よ、連帯せよ」と叫ぶであろう。こういう状況の中で、イエスは「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」と言う。私には答えはない。ただ、私もその答えを求めている一人の人間にすぎない。

2015日々の聖句 07月16日(木)
天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ55:9)
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ロマ11:33)
私の黙想:
現実に起こっていることを通して神を知る。いや違う。現実を通して、神の矛盾を知る。この「矛盾」とは私たち人間が理解できないこと、人間の理解の限界を超えていることである。いつも、現実は私たちが考える、願う、「理想」と異なることが起こり、私たちの祈りは破られる。神よ、あなたは何をお考えなのですか。神よ、あなたは私たちに「理想」を捨てよと仰られるのですか。私たちが考える理想は、「あなたの理想」とは異なるのですか。今日の聖句は、私たちが抱える矛盾への答えなのか。

2015日々の聖句 07月17日(金)
主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。(詩25:12)
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛してくださったように、愛によって歩みなさい。(エフェソ5:1~2)
私の黙想:
人生とは選択(=決断)である。これは私の人生観の最も底にある実感。最もその「底」の下には生まれると死ぬという「選択不能」の現実がある。その上での今日の聖句である。
私の母が死ぬまで悔やんでいたことが一つある。それは、1945年8月10日、1時間の猶予もなく、3人の幼子を連れて、新京(満州国、現在の長春)を脱出した時に、私一人で決断し、結構したことであった、という。脱出したことが正しかったか、間違っていたかの問題ではなく、その時祈りもせず、(つまり、神様のことが頭のなかからすっぽり抜けたまま)、決断し、結構したことであるという。それが内地(日本本土)に無事帰国し、そして父の実家(東北)に無事辿り着くまで続いたという。その頃、父は未だ激戦地沖縄から復員していなかった。私は今でもあの時の母の決断と決行とは正しかったと思うし、母もそう思っていると思うが、あの時、祈らずにあの決断をしたことは間違っていたと思っていたらしい。
人生には大きな決断もあれば、小さな決断もある。それらの様々な決断を通して「私の人生」は形成されている。「主を畏れる人」とは、その一つ一つの決断において、祈る、何も姿勢を改めで仰々しく祈ることではなく、チラッとでもいい「御心」を思い起こすことである。それがその後の生き方に大きな影響を与える。母が繰り返しいっていたことは、「にも関わらず、神さまは私に正しい道を示していてくださった」、ということであった。

2015日々の聖句 07月18日(土)
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。(詩139:16)
ナタナエルはイエスに言った。「どうしてわたしを知っておられるのですか。」(ヨハネ1:48)
私の黙想:
今日の聖句、今までにも何回も考えたこともあるし、語ったこともあるし、いわば「当然」過ぎる言葉である、が、今日の新約聖書の聖句と組み合わされると非常に新鮮に響く。目の前にいる一人の人間から私自身も知らない「私の過去」を、私が胎児であった頃からのことを知っていると言われた時のショックである。私には私の知らない「過去」がある! その「私の過去」を知っている人が目の前に存在している!ナタナエルでなくても、思わず「あなたは神の子だ」と叫ぶであろう。
今日の詩編の言葉にはそのような「驚き」がある。私たちはその驚きの前に立っていない。考えてみると「反省的思考」によると、確かに私は母の胎児として存在していた。その時の私の動き、反応を私たちは覚えていない。というより、知らない。しかし、知っている人間がいる。そして、そのわたしに語りかけていた人間がいる。私はその人の胎内で生きていたのである。まさにその意味で、母親(そして父親も)私にとって「神的存在」である。

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