ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/9/2~9/8

2018-09-08 12:41:32 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/9/2~9/8

2018 日々の聖句 9月2日㈰
貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。(いつまでも健やかな命が与えられますように。)(詩22:27)

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。(ヨハネ6:35)

私の黙想:
括弧の中は今日の聖句に含まれていない。詩22といえば、イエスが十字架上で叫んだと言われている「エリ エリ レマ サバクタニ(わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか)」(マタイ27:43)で有名な詩の冒頭の句である。この言葉を十字架の近くにいた人々はイエスが(預言者)エリアを呼んでいる、と誤解したらしい、というエピソードも残されている。
この冒頭の言葉があまりにも有名なために、この詩全体が何を詠ったものなのかという考察がなされない。というより、それをし出すとややこしいことになる。内村鑑三はイエスは十字架上でこの詩全体を唱えたのだ、と解釈している。十字架上のイエスが本当に「神から捨てられた」と思ったのだろうか。議論のあるところである。
この詩全体を朝の黙想の中で論じることには無理がある。ただ冒頭の言葉と今日の聖句とを対比することぐらいしかできない。
神から捨てられたと自覚することは、人間における最大の悲劇である。それに対して、今日の聖句は人間が生きていくもっとも基本的な必要が凝縮され、それが神による祝福を示しちいるとし、感謝の讃美である。この極度の矛盾がこの詩の基調である。極端に単純化するならば、冒頭の「神から捨てられた」という意識が、現実に生きる中で神によって覆される。イエスが十字架上で、そんなことを考えておられたのであろうか。

2018 日々の聖句 9月3日㈪
どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。(エレミヤ31:18)

あなたがたは心の底から新たにされなければなりません。(エフェソ4:23)

私の黙想:
預言者エレミアが「立ち帰らせてください」と祈る。何処から立ち帰るのだろうか。神から離れたのだろうか。考えられることは、神から「語れ」と言われていることを、民の顔色を見て、あるいは偽預言者たちの圧力に負けて、語るべきことを語らなかったのか。それぐらいしか想像出来ない。彼が、神の言うままに、口を開けば社会は混乱する。今や、エレミヤは社会を乱す者となっている。
今朝はここまで。

2018 日々の聖句 9月4日㈫
(サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。)「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」(サムエル前3:18)

御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)

私の黙想:
今日の聖句では前半の括弧の中は取り上げられていない。この部分がないと、後半だけでは何を言いたいのか分からないだろう。
旧約聖書において、「預言者」と呼ばれた最初の人物がサムエルである。サムエルを最後の「士師」とする学者もいるが、要するに時代の変わり目で「預言者」が活躍した時代の夜明けであったということだろう。
旧約聖書における「預言者」とは未来を予言する人、ないしは「先見者」ではなく、神の言葉を「預かる人」で、漢字で書く場合には「予言者」ではなく「預言者」と書く。「サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた」(3:20)。
サムエルの先生のエリは地方神殿の祭司であったらしい。通常であればエリの後継者として祭司になるところである。エリはサムエルの「教育」にはかなり苦労していたのであろうと思われる。8月31日のローズンゲンで学んだように、エリはサムエルに対する神の特別な配慮に気付いていたのであろう。少し嫉妬気味に、神がサムエルに何か語られたら、「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように」(3:17)と命じている。居の聖句の前半はそれを受けたことばである。ここから「神の言葉を預かる」という預言者の訓練が始まったと見ることができる。

2018 日々の聖句 9月5日㈬
「背信の子らよ、立ち帰れ。わたしは背いたお前たちをいやす。」「我々はあなたのもとに参ります。あなたこそ我々の主なる神です。」(エレミヤ3:22)

あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。(ガラテヤ4:6)

私の黙想:
「背信」という言葉、普段はほとんど用いられない日本語である。それでも何となく分かる。この言葉は厳密には「信頼に反すること」で、先ず信頼関係が当然の状況において、その関係を破ることで、もっとも分かりやすい情景は「親不孝」であろう。文語訳では「背ける子らよ」と訳している。
面白いのはケンブリッジ註解書では「わがままな子らよ」と訳している。この注解書の原文は英語で、それを日本語に訳したのであり、英語の原文ではどうなっているのかわからない。私にとって興味深いのは、日本語の翻訳者が私の同級生で彼の優秀さ、真面目さをよく知っている関係の松浦くんが「わがまま」と訳していることである。これは無視できない。「わがまま」とは、彼にとって彼自身の生き方とは全く無縁であった。彼は親に対しても大学の教師連に対しても一切「わがまま」な態度をとることがなかった。その彼が「わがまま」という単語を使ったことの異常さが気になる。
チョット脱線してしまったが、これは決して「背信」ではないことを願う。

2018 日々の聖句 9月6日㈭
突然襲う恐怖(、神に逆らう者を見舞う破滅)、におびえてはならない。主があなたを(の傍らにいまし足が罠にかからないように)守ってくださる。(箴言3:25~26)

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。(エフェソ6:10)

私の黙想:
日々の聖句だと、「突然襲う恐怖におびえてはならない」となり、どんなに恐ろしい災害でも恐れることはない、という一般的な意味になってしまう。箴言の原文ではその災害に限定句が付いており、その災害は「神に逆らう者を見舞う破滅」ということになる。だから、「あなたがたは」突然の災害にも恐れることはない。神は必ず守ってくださる、という主旨になる。
昔の人は、突然襲う災害は「神に逆らう者」に対する神の刑罰だと理解されていたのであろう。だから常に正しく、神と人とに誠実に生きている者には災害も及ばないと信じられていた、のであるう。これはあくまでも「昔の人の思考」であって、現代では危険思想(オカルト)となる。
口語訳では「あなたはにわかに起る恐怖を恐れることなく、悪しき者の滅びが来ても、それを恐れることはない。これは、主があなたの信頼する者であり、あなたの足を守って、わなに捕われさせられないからである」。微妙に違うが参考にはなる。
ローズンゲンで取り上げられていない括弧の中の「神に逆らう者を見舞う破滅」について、岩波訳は面白い解説をしている。「邪悪な者どもが破滅することが起こったとしても」の意味にもとれるが「邪悪な者どもがもたらす災難が起こったとしても」の意味にもとれる。

2018 日々の聖句 9月7日㈮
(この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、)わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申命記15:11)

言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ3:18)

私の黙想:
今日の聖句は前半の括弧の中は対象外である。後半は極度に単純な神の命令で、神の命令でなくても、人間として当然のことで、黙想の余地がない。
今朝は前半の言葉に釘づけられ、聖句にまで黙想が至りませんでした。
今朝の私の黙想は前半の「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう」という言葉を考え込んでしまった。「貧しい者がいなくなることはない」、それは「何故、貧しい者が出るのか」という問いに対する敗北宣言である。
全部が貧しいときには「貧しさ」は問いにならない。貧富の差があるところで、人は貧しさの原因を考える。富める人間はその問いさえ感じない。貧しい者が貧しさの原因を問う。もちろん今はやりの「自己責任」ということもあるであろうが、それは結果であって原因ではない。もっとも根本的な原因は自然環境の差異にあるだろう。有利な場所もあれば不利な環境もある。それはグローバル的にも狭い共同体ないにおいてもある。最小共同体の規模にもある。同じ家族内でも、能力、体力、生まれた順序においても決して平等ではない。現在の社会においては所属した組織(会社等)の浮き沈みもある。
その結果、「貧しい者がいなくなることはない」と言わざるを得ない。だとすると、「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」という今日の聖句が、神の命令として生きてくる。

2018 日々の聖句 9月8日㈯
(そのとき、)彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。(エゼキエル34:30)

イエスの言葉:あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、(また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、)わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15:16)

私の黙想:
今日の聖句が語ろうとしている内容は単純である、文章が複雑なためややこしく聞こえる。文章を形式化すると、このようになる。「彼らはわたしが主なる神であり、彼らはわが民(が)イスラエルの家であることを知る。後半の「わが民」と「イスラエルの家」との間に「が」を挿入すべきであろう。論理的に考えると、「わたし」が「主なる神」であること、に対応するとしたら「イスラエルの家」が「わたしの民」であるとなるべきであろう。その点口語訳はスッキリしている。「彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる」。フランシスコ会訳ではもっと明解である。「その時、彼らの神、主なるわたしが彼らと共にいること、また彼らイスラエルの家がわたしの民であることを、彼らは知るだろう」。新改訳はさらに整理され「このとき、彼らはわたしが主で、彼らとともにいる神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう」。岩波訳は大胆に語順を変更し「こうして、彼らは知るであろう。わたしが彼らと共にいる彼らの神であり、彼らがわが民、イスラエルの家である」。
もう、これ以上に解説は不要であろう。新共同訳だけしか読んでいない人には聖書の真意が通じるか、問題である。

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