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概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(6)

2014-03-30 16:45:03 | 小論
概説:エラスムス著『痴愚神礼讃』(6)

Ⅶ 「敬虔な狂気」(66節~67節)
(a) 66節 痴愚とキリスト教
(b) 67節 キリスト者の褒賞

結びの口上(68節)

(a) 66節 痴愚とキリスト教
この節の冒頭で63節から65節までのだらだらした論述をこうまとめている。
「これ以上際限なく例を挙げるのはやめて、かいつまんで申しますが、キリスト教は全体として、痴愚となにほどか血脈を通じているところがあり、知恵とは相通じるところが極めて乏しいように思われる」。
その上で、キリスト教徒の幸福ということについて、次のように述べている。
「キリスト教徒の幸福とは、一種の狂気と痴愚にほかならないのです。私の言葉に気を悪くなさらないでください。それよりも、事実そのものをとくとお考えください」。
本書を通じて、エラスムスは痴愚と狂気とを一体化して考えている。また、こうも言う。
「こういう人たちは自分の持てる財産を蕩尽し、不正をはたらかれても気にせず、欺かれることに甘んじ、友と敵とを区別せず、快楽を嫌い、断食、不眠、涙、労苦、屈辱をいやと言うほど味わい、生を厭い、ひたすら死を願います。一言で言えぱ、常識に対するあらゆる感覚を失っているように見えますので、あたかも魂がその肉体ではなく、どこか別のところで生きているかのようです。これを狂気と言わずして、なんと言いましょう」。
ちょっと描写が極端すぎるが、使徒パウロの生き方を見ているとこれに近いものがある。またローマの高級官僚フェストゥスもパウロの話を聞いて「パウロ、お前の頭はおかしい。学問のし過ぎで、おかしくなったのだ」(使徒言行録26:24)と言い、ペンテコステの日の使徒たちを見て人々は「あの人たちは、新しい葡萄酒に酔っているのだ」(使徒言行録2:13)と言ったという。要するに、普通の人たちから見るとキリスト者は狂っているように思われたという。

66節と67節では痴愚女神がほとんど登場しない。この部分はもはや痴愚女神の自慢話ではない。むしろエラスムス自身の信仰論、宗教観がストレートに論じられている。エラスムスにとって信仰とは大なり小なり「狂気」であるとされる。
彼はまず一般論として、狂気とは魂が肉体の束縛をから解放されて自由になることであると定義づけることから始める。この現象をプラトン哲学の死と瞑想との関係を援用して、「魂が肉体の器官を正常に駆使しているかぎりは、魂は正気であるとされますが、肉体の束縛を逃れて自由を求め、牢獄から逃れるようにそれから逃れようと考えるようになると、狂気だとされるのです。この状態がたまたま病気なり器官の不具合によって生じた場合には、誰もがこれを狂気と認めます」。
もちろん彼は一般的な狂気と「宗教的情熱によって生じた」狂気とは同じものではないとするが、多くの人々の目にはその違いは明白ではないという。特に「一般の人間社会とはまったく異なった生き方をしている人たちが、 ごく少数であるために、 そう思われてしまう」のである。
そのことについてプラトンの洞窟の寓話を取り上げて説明する。
一般の人々は、洞窟内に閉じ込められ、事物の影のみを見て生きている。ところがある人が洞窟から脱出し外の世界を見て、再び洞窟に戻って外の世界のことを語っても、人々はその人の話を受け入れようとしないで、その人を狂人扱いをして洞窟から追い出してしまう。
世俗的人間は物質的な世界が全てであり、物資的世界にのみ関心を持つが、宗教的人間は物資的な事柄に無関心となり、霊的な世界に囚われ、そこに自らの喜びを感じる。
もっとも物質的なものと霊的なものとはそれほど明瞭に区別できることではなく、それぞれにいろいろな段階がある。触覚、聴覚、視覚、嘆覚、味覚などの感覚的機能は物質に直接接触しているが、記憶、知力、意志というような機能は肉体から距離がある。宗教的人間は全身全霊を挙けて、可能なかぎり物質的なものから遠ざかろうとするため、だんだん物質的な感覚は弱まり、無力化していく。逆に世俗的人間は物質的なものにおいて最も力を発揮し、精神的なものとなると、ほとんど無力となる。エラスムスの友人の聖人たちの中に葡萄酒だと思って油を飲んでしまった人がいるという。

ところで、全ての人間の中には性欲、食欲、睡眠欲、怒り、倣慢、羨望等々の情念(注1,情念については16節で「理性」に対立するものとして論じられている)が存在する。この情念は肉体という粗雑なものと密接に関連している。宗教的人間は情念と肉体との関係を断ち切ろうと果敢に戦いを挑む。逆に世俗的人間はそれなしでは生きていけないと考えている。次に、祖国愛、子供ヘの愛、両親への愛、友人への愛といった自然な情念もある。これらの中間的な情念については世俗的人間はある程度重視するが、宗教的人間はこれらをも捨てるか、あるいは究極まで高めようと努力する。宗教的人間が親を愛するのは、ただ肉体を与えてくれた親としてではなく、知性の最高の似姿として輝きを放っている理想化された親として愛しているのである。宗教的人間にとって最高の知性を至高の善と呼び、それ以外のものは愛してはならないし、追い求めてもならないと明言する。つまり、親への愛は神への愛にすり替えられている。
これと同じ論理が人生のすべての局面において働く。「その結果、どこでも眼にすることのできるものは、これを完全に蔑視するところまではいかないまでも、眼に見えぬものよりもはるかに価値が低いとしている」。

さて、ここからエラスムスは自分自身の思想ではなく宗教的人間の考え方を説明している。彼らによると、信仰上の努めである秘跡には肉体的なものと精神的なものとがある。断食についても、世俗的人間が考える断食とは、単に、肉食を断ったり夕食を抜いたりすることで、宗教的人間はそれだけでは意味はないと考えている。むしろ重要なことは「普段よりも怒りに駆られることなく、倣慢の度合いも減じ、精神が肉体の重荷をより感じなくなって、天上界の至善の味わいを享受すベく努める」というように情念を制御することが重要なのである。
聖餐式についても同様で、その儀式それ自体は尊重しなければならないが、「そこに眼に見える形であらわされる精神的なものが入っているのでなければ、その行為そのものはほとんど役に立たないのみならず、有害でさえある。聖餐はキリストの死をあらわしたものであって、新たな生命を得て蘇り、キリストと一体になり、また互いに一体となることを願うためには、人はキリストの死を、肉体に宿る情念を抑圧し、消滅させ、葬り去って表出しなければならない」、と考えている。これとは逆に、世俗的人聞は、「聖餐の儀式とはただ、できるだけ祭壇の近くに座を占め、司祭が祈りを唱える声を聴くこと、そのほかのこまごまとした儀式を眺めることだと信じています」。つまり見かけとしては世俗的人間の方が敬虔そうに見えるであろう。
以上述べてきたことのまとめると、宗教的人間は「その生活全体において、肉体とかかわりの深いものを避けて、永遠なるもの、眼に見えぬもの、霊的なものへと惹かれてゆくのです」。宗教的人間と世俗的人間との間には、「あらゆることに関して抜きがたい対立がありますから、双方の眼に相手が気が狂っているように映るわけです」。つまり宗教的人間からは世俗的人間が狂っていると見え、逆に世俗的人間からは宗教的人間が狂っていると見える。しかし、この節の最後で、エラスムス自身の言葉として、「もっとも、私の考えでは、この狂気ということばは、世俗的な人間よりも敬虔な人に冠するのによりふさわしいのです」と言う。

(b) 67節 キリスト者の褒賞
この節では前節で論じたことをキリスト者(宗教的人間)の「最高の褒賞」という論点から語る。ここでもまずプラトンの考えを紹介している。ブラトンは言う。「恋する者の狂気はあらゆる狂気の中で最も幸福なもである」。「熱烈に恋している者は、もはや自分のうちにではなく、自分が愛している者のうちに生きており、できるかぎり自分自身から離れて愛する者のうちに入り込めば入り込むほど、いっそう大きな喜びに浸るのです」。先に論じたように、「狂気とは魂が肉体の束縛から解放されて自由になることである」。この場合、エラスムスの「魂」という言葉の意味内容を明白にしておかねばならないであろう。
第16節によると、人間は肉体と魂とで構成され、その魂の中に理性と情念とがある。その「魂の中の情念」には様々な働きがある。その情念の働きが第66節で次のように論じられている。
ところで、魂の情念の中で、性欲、食欲、睡眠欲、怒り、倣慢、羨望などといったいくつかのものは、 肉体という粗雑なものと、より密接に関連しています。 こういうものに対して、敬虔な人は仮借なき戦いを挑みますが、世俗的な人間はそれなしでは生きてゆけないと思うのです。次に、祖国愛、子供ヘの愛、両親への愛、友人への愛といった、中間的な、自然なと言ってよい情念があります。世俗的な人間は、こういうものを少なからず重んじます。ところが敬虔な人々は、こういった情念を魂から一掃するか、さもなくば、それらが魂の最も高邁な部分にまで高まるよう努めるのです。彼が親を愛するのは、ただ親としてではなく(親は肉体以外の何を産んでくれたというのですか。それに肉体そのものからして、神から授かったものではありませんか)、知性の最高の似姿として輝きを放っている立派な人物としてなのです。敬虔な人たちはこの最高の知性を至高の善と呼び、それ以外のものは愛してはならないし、追い求めてもならないと明言しております。
この部分は非常に重要な箇所とは思うが、文意がもう一つ明瞭ではないので、渡辺一夫氏の翻訳(「世界の名著」17,p186,中央公論社)を参照すると、要するに、世俗的な人間はさまざまな情念なしに「生きていけない」と考え、「ずるずると引きずられて」生きる。それに対して宗教的人間は「力強く抗争」し、情念を「根こそぎに」しようとするか、あるいは「魂の絶頂点まで、これを高めようと努力」する。つまり、エラスムスにとって「魂」とは自己自身に内在する諸情念と相対する「私」である。言い換えると、肉体の中に宿る人間性という意味であろうかと思われる。
人間の内部に宿るさまざまな情念は、肉体と密接につながり、肉体を支配するエネルギーでもある。従って情念を断ち切るとか、情念を「高める」ということは、魂が肉体から抜け出すという経験でもある。
67節に戻ると、エラスムスは魂が肉体を抜け出すという経験について次のように述べている。
「魂が肉体を抜け出そうと企て、肉体の器官を正常に用いることができなくなったとき、疑いもなく、それを狂気と呼ぶのは当を得ています。さもなければ、普通世に言う「われを忘れた」とか、「正気に返れ」とか「正気に返った」とかいう言い方は、何を意味するのでしょうか。さらには、愛が完全であればあるほど、狂気の度合いも激しさを増し、いっそう幸福感にひたれるのです」。
これを私たちは宗教的エクスタシーと呼ぶ。これをわざわざ「宗教的」と限定しなければならない理由は、宗教的ではないエクスタシーと区別するためである。宗教的人間にとってエクスタシー状態とはまさに天国の経験であるが、それはいわば将来の「永遠の幸福」の部分的先取りである。それは永遠の幸福に比ベれば、ほんの小さな一滴にすぎないが、それでも全ての人間の一切の快楽をひとまとめにしても、肉体の知るあらゆる快楽にまさるものなのである。それほどにまで霊的なものは肉体的なものにまさり、見えないものは見えるものにまさっているのである。しかしこの経験こそが、宗教的人間が求めている至福であり、この世においてもあの世においても変わることのない祝福なのである。
最後にエラスムスは重要なことを付け加えている。このような狂気に似た経験をすることの出来る人はごく僅かだというのである。
「脈絡を欠いたことを、普通の人とは違ったふうにしゃべり、意味のないことを声に出して言い、それからがらりと表情を変えたりします。陽気に振る舞ったかと思えば悲しみに沈み、泣いていたかと見れば笑い出し、かと思えばため息を漏らすといった具合で、要するに心ここにあらずなのです。われに返りますと、自分がどこにいたのか、肉体の内にいたのか外にいたのかも知らず、眼をさましていたのか眠っていたのかも、何を耳にし、何を見、何を言い、何をしたのかも知りません。まるで雲の中か夢の中をさまよっていたかのような記憶しかなく、ただそのような錯乱状態にあったとき、無上の幸福感にひたっていたことだけを知っているのです。そこで彼らは正気に返ったことを悲しみ、何にも増して、このような狂気に永遠に囚われていることを願うのです。これにしても、やがて味わうことになる幸福の、ほんの小さな一かけらにすぎないのです」。
エラスムスはこれを冷めた頭で書いている。

結びの口上(68節) 
最後の結びの口上が実に面白いので、そのまま引用しておきます。
あれまあ、私としたことが、だいぶ前から我を忘れて脱線してしまいましたね。この私があんまりにも無遠慮にものを言い、おしゃベりが過ぎると、皆さまが思われましても、そうしているのが痴愚女神であり、女なのだということをとくとお考えください。それはそうとして、「愚者も時には時宜を得たことを語る」というギリシアの諺を思い出していただきたいものですね。ひょっとして、それは女にはあてはまらないなどと思っていただきたくはありません。どうやらみなさんは結びの辞を期待しておられるようですね。でもこんなにも遠慮無くしゃベり散らかしておきながら、この私が自分の言ったことを覚えているなどと万が一にもお考えなら、そりゃ阿呆の度が過ぎるというものですよね。昔から諺にも「物覚えのいい飲み仲間は憎たらしいもの」と言われておりますが、ここでもう一つ新しいのを加えまておきます。「物覚えのいい聴衆は憎たらしいもの」とね。
されば、ごきげんよう。拍手喝采の程を。御健勝にて、御献酬なさいませ。痴愚女神の秘儀に通じた、その名もいや高きみなみな様。
完(テロス)。

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