ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/7/15~7/21

2018-07-21 16:27:17 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/7/15~7/21

2018 日々の聖句 7月15日(日)
主よ、あなたは暴虐な者たちの歌声を低くされます。(イザヤ25:5)

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。(1ヨハネ3:8)

私の黙想:
神は「暴虐な者たちの歌声」を消さない。彼らは何ものだろうか。口語訳では「あらぶる者の歌をとどめられず」と訳し、文脈からそれは外国人を意味するらしい。フランシスコ会訳では口語訳に似ているが最後の部分だけ、「歌声を鎮められます」となっている。岩波訳は「荒ぶる者の勝ち歌を鎮めます」。
関根先生はイザヤ書24~27章を「イザヤ黙示録」とし、イザヤの預言ではなく、ユダヤ黙示文学のはしりとする。
この詩(25:1~5)では、この世では「絶対に勝つ者」いない。「荒ぶる者」といえども、絶対の神のコントロール下にある。

2018 日々の聖句 7月16日(月)
(どうか主が民に力をお与えになるように。)主が民を祝福して平和をお与えになるように。(詩29:11)

あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。(使徒10:36)

私の黙想:
今日の聖句のカギは「平和」である。もちろん「平和」はシャロームであるが、このシャロームには「〜の内に」という前置詞が付いている。平和は裸のままで存在しない。何かによって包まれ内在という形で実在する。
権力者が与える平和は、いわば脅しによる平和であるが、あなた方が経験する平和は「祝福」によって包まれた平和であり、その祝福の源泉はヤハウェによって与えられた「力」である。
口語訳、新改訳では「平安をもってその民を祝福されるであろう」。フランシスコ会訳では「御自分の民を祝福し平安を与えてくださる」。

2018 日々の聖句 7月17日(火)
主の言葉:あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:6)

イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(ヨハネ20:21)

私の黙想:
これがイスラエルの民の理想。それは同時にヤハウェ(神)に托された使命である。イスラエル史において、かなりの部分実現したが、結局、それは他国と同様「武力」によるもので、「剣によってたつ者は剣によって倒される」。
イエスは身をもって、また言葉によって、ローマ兵の前に立ち、十字架への道を歩まれた。ヤハウェが望む「祭司の国」、「聖なる民」の使命はイエスの運動により生まれたキリスト教に托されたし、それが教会の使命でもある。
さぁ、現在、私したちはその道を歩んでいるだろうか。

2018 日々の聖句 7月18日(水)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。(一つの町から一人、一つの氏族から二人ではあるが、)わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。(エレミア3:14)

わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。(ヨハネ6:37)

私の黙想:
エレミア書全体に関わる問題に関わるとあまりにも複雑になりすぎるので、本日のテキストに関わることだけに問題を絞る。
3章12節から19節までは「神の招きと約束」、イスラエルの将来の回復の預言である。罪を認め懺悔して帰る者は赦され(13) 、イスラエルの「残れる者」は救われる(14) 。神の心に合う牧者とはメシアのことで(15)である。
ヤハウェの赦しの根拠について「わたしこそあなたたちの主である」という。口語訳は「わたしはあなたがたの夫だからである」と訳している。面白いのはケンブリッジ訳では「私はあなたのことを我慢するからである」と訳している。この単語はヘブル語では「バーアルティ」で、「夫」とも、「主人」または「主」とも訳せるが、いずれにせよ、明白に「バアル」(異教の神)との語呂合わせが面白い。

2018 日々の聖句 7月19日(木)
(富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。)<主よ、あなたの>勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。(歴代誌上29:12)

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせた。(ルカ9’46~47)

私の黙想:
ダビデ王が王位をソロモンに譲るときの式典でのダビデ王の祈りと演説が記されている。イスラエルでは王の権威も権力もヤハウェに依存している。しかも、それは国民の支持によって保証される。
全然関係ないが、「主教位の継承(主教按手式)」との関係を考えるとき、ここでの王位継承式は面白い。「按手によって力ある者となさる」。ただし、「ことができる」という言葉が添えられていることに注意!

2018 日々の聖句 7月20日㈮
わたしはわたしの羊飼いを火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答える。(「彼こそわたしの民」と言い彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。)(ゼカリア13:9)

パウロの手紙:わたしは苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(ロマ5:3~4)

私の黙想:
ヤハウェによる指導者(宗教的)の教育・訓練は厳しい。その厳しい訓練を経て、初めて「練達」に至る。神による訓練を逃げ回り、安易な道だけを歩む聖職が多い。これが教会を無力化し、主体性のない信徒を作る。教会が生き生きする火、否かの鍵は牧師の練達にかかっている。

2018 日々の聖句 7月21日㈯
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)

わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(エフェソ2:10)

私の黙想:
今日の聖句、手垢どころか、繰り返し繰り返し読み、考え、語り、論じてきた言葉である。昨夜も寝ていて、この言葉を思い起こしていた。
その時、突然、神は他の動物等をどの様にして創造されたのか、という疑問が出て来たが、神が創造されたことは間違いないが(1:20~25)、その叙述は大雑把であり、名前さえ付けておられない(2:19~20)。
ところが人間の創造だけは、実に細かく素材、形成、仕上げまで描かれている。考えて見ると、これは大変なことである。しかも、最後には「人はこうして生きる者となった」と記されている。
現代の生物学等諸科学は、人間と他の生物との「連続性」を解明するのに忙しいが、聖書における創造物語においては人間は「特別」なのだ。

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