ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 9/4~9/24

2011-09-30 06:39:54 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 9月4日(日)
神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。(王上8:27)
キリストの言葉:二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:20)
私の黙想 神の居場所。地にもない。天にもない。天の天にもない。居場所のない神。私たちはどこに向かって拝したらいいのか。仕方がないので、地上に神の「仮の居場所」を作りました。しかし何時の間にかそこが「聖なる場所」になり、「居場所のある神」が誕生しました。

今日のローズンゲン 9月5日(月)
天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。(王上8:27)
いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。(使徒言行録7:48)
私の黙想
おお、今日のローズンゲンは昨日の続きだ。果たしてこれは本当に「籤(ローズング)」の結果か。ともかく、ここはもう既に黙想済み。神の居場所に相応しい所、それはどこだ。人間の「心」か、人間と人間との「間」か、虐げられている人たちの「傍ら」か。「想定外の所」であろう。

今日のローズンゲン 9月6日(火)
恐れてはならない。わたしはあなたと共にいて、祝福する。(創世記26:24)
パウロの手紙:そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。(ロマ15:29)
私の黙想 近所の人との水争いで自己主張を避けてその場を去るイサクに対して神のお褒めの言葉。ここでイサクは何を恐れていたのだろうか。隣人との争いによって失うものと、得るもの。正義を貫く道は必ずしも善に至らない。

今日のローズンゲン9月7日(水)
あなたの目は麗しく装った王を仰ぎます。(イザヤ33:17)
御子が現れるとき、わたしたちは、御子をありのままに見ます。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。(1ヨハネ3:2-3)
私の黙想 将来現れるであろう救済者王への期待感が溢れている。しかし実際に現れた救済者は「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」(イザヤ53:2)。人々は彼らが期待した救済の「内容そのもの」を考え直すべきことを迫られた。これは難しい。

今日のローズンゲン 9月8日(木)
人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。(箴言19:21) わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(1コリント3:6)
私の黙想 今日の聖句、一見信仰的に思える。しかし危険でもある。結果を見て過去の自分の決断(実は願望)を肯定しているにすぎない。その時には確信がなかったという言辞でもある。「多くの計らい」の中から、これが神の御心だという決断に欠けている。信仰は将来への決断である。

今日のローズンゲン 9月9日(金)
わたし(主)は、「彼こそわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。(ゼカリア13:9)
召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません。(2ペテロ1:10)
私の黙想 民族の粛清という恐ろしい出来事を経て,この関係が成立するという。旧約聖書におけるこういう思想(預言)は無視すべきである。イエスはこういう思想と対決したのだ。イエスの十字架の背景にある「粛清の思想」。アウシュビッツを先取りする非人間性、残虐性。

今日のローズンゲン 9月10日(土)
主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ、乏しい人のために裁きをしてくださることを、わたしは知っています。(詩140:13)
キリストの言葉:貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)
私の黙想:
「わたしは知っている」という言葉が印象的。聖書の神は常に貧者の味方。虐げられている者と共に立つ。電気料金を支払えない者の家に宿り、暗さを共有する。この家の電気を止めたのは誰だ。

今日のローズンゲン 9月11日(日)
すべて肉なる者は、わたしは主、あなたを救い、贖う者であることを知るようになる。(イザヤ49:26) 耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。(マタイ10:27)
私の黙想
まぁ、まぁ、その前に「あなた」と呼ばれる「私たち」は救われなければならないということ、贖われなければならない者であるということを知らねばならない。そのことは、それ程自明なことなのか。「まともな人間」でありたいということは事実であるが、それは救いか。

今日のローズンゲン 9月12日(月)
主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み、わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないようにしてください。(詩25:1-2)
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(ヤコブ1:12)
私の黙想
今日の聖句を裏返すと、神を信じる者が不幸になることは恥だという思想になる。しかも、そのことを取り上げて「神に迫る」。一寸変じゃないだろうか。神が崇められるためならば、喜んで恥を受ける。必要があれば、主のみ名を唱えながら十字架にかかる。

今日のローズンゲン 9月13日(火)
わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く。(エレミヤ3:15)
キリストの言葉:行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。(マタイ10:7)
私の黙想:
「王制の設立」のことを言っているとしたら時代がかなり異なる。過去のことと未来のこととが重なっている。次の16節の「主の契約の箱について」の言葉もエレミヤの時代とは思われない。その上で「心に適う牧者たち」について考える。誰の心に適うのか。

今日のローズンゲン 9月14日(水):
主は、従う人に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。(詩34:16)
あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタイ6:8)
私の黙想:
そうだ。神は従う人に目を注いでおられる。それだけで十分である。見ておられる方がおられるというだけで、「従う人」は生きていける。先日の礼拝で語ったところではないか。

今日のローズンゲン 9月15日(木):
地の果てまですべての人は、わたしたちの神の救いの御業を見た。(詩98:3)
わたしたちが希望しているのは、あなたがたを越えた他の地域にまで福音が告げ知らされるようになること、わたしたちが他の人々の領域で成し遂げられた活動を誇らないことです。(2コリント10:16)
私の黙想:
神におけるユニバーサリズム(普遍性・グローバリズム)と、人間が経験する地域性、特殊性、個別性との関係を考える。古代ユダヤ人たちは自分たちの経験をグローバルな事件として捉えている。それを媒介するのは神の普遍性。難しい。

今日のローズンゲン 9月16日(金):
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。(イザヤ53:1)
この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。(1ペトロ1:10)
私の黙想:
預言者は自ら語りつつ、語っていることの内容が信じられないし、理解できていない。おそらく聞いている者も語られている内容を受け止めることが出来ないだろうと思いつつ、なお語る。こんなことを口にしたら馬鹿にされるであろうと思いつつ、語らざるを得ない。

今日のローズンゲン 9月17日(土):
心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。(1サムエル12:20-21)
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。(ロマ12:11)
私の黙想:
「むなしいもの」は世に溢れている。慕っている訳ではないが、向こうの方から押し寄せてくる。むしろはねのけるのに一所懸命である。

‎今日のローズンゲン 9月18日(日)
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。(詩82:8)
わたしたちは、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望みます。(テトス2:13)
私の黙想:
神による統治への願望。それは人間の責任の放棄になってはならない。神は人間を創造するに際して2つのことを託された。「神に似る」ことと、「全被造物への支配」という責任である。

‎今日のローズンゲン 9月19日(月)
立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。(エレミヤ25:5)
洗礼者ヨハネの言葉:悔い改めにふさわしい実を結べ。(マタイ3:8)
私の黙想:
「悪の道と悪事」とは、あれこれという個別的な事柄ではなく、神に「立ち帰る」ということを意味している。つまり本来あるべき人間になる。十戒の第1「あなたはわたしのほかに、何ものをも神としてはならない」。

今日のローズンゲン 9月20日(火):
主はわたしに言われた、「あなたはわたしの僕、イスラエル、あなたによってわたしの輝きは現れる」と。(イザヤ49:3)
聖霊(キリスト)は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。(エフェソ1:14)
私の黙想: 謎に満ちた言葉。考えれば考えるほど分からなくなる。このイザヤの言葉を当時のイスラエル人びとはどう聞き、どう理解したのだろうか。ただ「謎」として聞き流したのだろうか。そして現在のユダヤ人たちはこの言葉をどう理解しているのだろうか。ただ単なる一人の預言者の妄想か。

今日のローズンゲン 9月21日(水) :
あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命を得る。(申命記5:33)
パウロの手紙:私は祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。キリストの日に備えて、清い、とがめられるところのない者となるように。(フィリピ1:9-10)
私の黙想:
神が命じられた道をひたすら歩く。なかなかいい言葉だ。それだけでいい。「そうすれば」以下は不要だ。この言葉が加えられることによって信仰は神との「駆け引き」になる。まして「幸い」とか「土地」なんていう言葉が付加されたことによって紛争の種を後世に残した。

今日のローズンゲン 9月22日(木):
主の御言葉を賛美します。(詩56:11):
あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。(2テモテ1:14)
私の黙想:
直訳すると「ヤハウェにあって、わたしは賛美する、み御言葉を」となる。賛美するのは「御言葉」である。言葉は「ダバール」。単に口から発する言葉ではなく、事柄として実現する言葉、言ったことが言ったとおりになるというコトバである。

今日のローズンゲン 9月23日(金):
わたしの魂は夜あなたを捜し、わたしの内なる霊は朝あなたを捜し求めます。(イザヤ26:9)
神は、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださったいました。(ガラテヤ4:6)
私の黙想:
朝から晩まで神を求め、神のことを考える。それは誇張でなければ異常である。人間が生きるということは、頭の中でも現実的にも、色々な人と出会い、色々なことを経験することである。その中で殆ど神のことは考えていない。だから朝だけでも神のことを考える。

今日のローズンゲン 9月24日(土):
主は言われます。「虐げに苦しむ者と、呻いている貧しい者のために、今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」(詩12:6)
イエスの話された喩え:主人は僕に言った。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」(ルカ14:21)
私の黙想:
ここでいう「虐げに苦しむ者、呻いている貧しい者」とは個人ではなく、ユダヤ民族そのものをさしている。自分たちをこのように規定する現実認識はすごい。ここからしか民族の再生は成り立たない。核を所有することによって、いわゆる「先進国」への仲間入りを目指した敗戦国日本は、あのときから間違っている。

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