ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

栗原市耕英地区 開拓民

2008-06-17 17:14:42 | ときのまにまに
この度の岩手宮城内陸大地震の被災地、栗原市耕英地区は1947年、旧満州(現中国東北部)から帰国した開拓民が原生林を切り開き、農地を作ったと言われている。この地区の中心部には「耕英拓魂」と彫られた石碑が建ているとのこと。わたし自身も引き揚げの時の本籍地は宮城県で、ヒョッとするとわたしもここに住んでいたかも知れない。
わたしの年齢から想像して、70歳以上の人々は、大変な苦労をして旧満州から引き揚げてきた人たちに違いない。推測するに、そのほとんどの人たちは、わたしの父親と同様に東北の地から旧満州に移住した人たちであろう。とくに、東北地域からは多くの開拓団が形成された。おそらく、ここの住民の多くは満蒙の辺境の地に開拓農民として送り出された人たちの子孫だと思われる。
当時、世界的な大恐慌により日本経済は危機的状況にあり、とくに東北地方では大飢饉と重なり、娘を売るということがかなり行われるような状況であった。それは、お金のためと言うよりも、一種の口減らしで、例の226事件の決起文ではそのことが深刻に訴えられている。
日本政府は、当時緊迫していた人口問題と食糧問題を一挙に解決する施策として、満蒙地域は「日本の生命線」というかけ声で、大々的に農民を募集し、旧満州に送り出したのである。後に、この地域の先住民たちの土地を取り上げるというような卑劣なことを行ったが、当初は、ソ連との国境線沿いに、開拓村を形成し、農業と治安の維持のために配置したのである。彼らはいざという時には関東軍が守ってくれるということを信じて、開拓に励んだのであった。しかし、実際にソ連軍が国境を突破して満蒙地域に侵入したときには、関東軍は在満邦人を見棄てて、彼らを見殺しにしたのである。
彼らのうちのごく一部だけが、筆舌に語れないような苦労を重ね、やっと帰国した祖国には、彼らの住むべき生活の基盤は既になく、日本政府が彼らに提供した場所が、未開墾の山間地域であった。それから、60年、やっと生活の基盤が出来上がったと思った時に、今度の大地震で、その基盤がもろくも崩壊してしまった。
願わくは、日本政府も、今までのすべての前例を無視して、超法規的に、責任を持って、彼らを守って欲しい。

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