ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/11/09~11/15

2014-11-16 08:17:00 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/11/09~11/15

2014日々の聖句 11月09日(日)
人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。(申命記8:3)
イエスの言葉:朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。(ヨハネ6:27)
私の黙想:
荒野において与えられたマナについての神学的解釈。人はパンによって生きる、あるいは生かされているという単純な事実が「神学的?」に解釈された瞬間、現実の「切実さ」が忘れられる。人間は霞を食っては生きられない。いやむしろ「人間も」というべきであろう。パンを得るための苦労は並大抵ではない。額に汗を流して土地を耕し食えるものを生産する。それが生身の人間の厳しい宿命である。この現実を忘れさせるために人間はいろいろな装置を想造する。しかし、それらのすべての装置はパンの代わりにはならない。現実を忘れさせる思想も芸術も宗教も全てパンの代わりにはならない。今日の聖句の「パンだけで」の「だけで」によって、申命記神学をなんとか承認したいと思うが、そもそも「神の言葉」と「パン」とを対比させること自体が問題である、と私は思う。パンが神の言葉の代用にはならないように、神の言葉もパンの代用にはならない。週に1回の大切な日曜日に相応しくない、黙想になってしまった。

2014日々の聖句 11月10日(月)
ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。」(サムエル下12:13)
あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。(1ヨハネ3:5)
私の黙想:
ダビデの姦淫の罪に対する残酷物語。通常は今日の聖句、ダビデの懺悔と赦しの物語で終わる。確かにダビデは罪を告白することによって死刑は免れた。しかし本当の物語はそれでは終わらない。姦淫の罪の結果である子どもの誕生、本来は喜ばしい子どもの誕生が、姦淫の結果であるために、この子は生後7日で死ぬ。なんという残酷。生まれた子どもには何の罪もないのに。親の罪の身代わりとし死ぬべく運命づけられた幼子。ダビデはそのことのためにどれほど苦しんだことだろう。まさに、死ぬような苦しみ、いや自分の死よりももっと残酷な死の体験と言ってもいいかもしれない。物語はそれでは終わらない。幼子が死んでまもなく、死んだ幼子の身代わりのようにして次の子どもが産まれる。物語はハッピーエンドのように見える。しかし、これは本当にハッピーエンドなのか。父親ダビデも母親バト・シェバは本当に喜べたのだろうか。目の前でスクスクと育つ次男ソロモンを見るたびに、失った子供のことを思い出さないであろうか。それほど残酷な罰はない。
この物語を単純に罪の贖罪としての「身代わりの死」と「死んだ兄の復活」の物語としては読めない。この物語をそのように「読む」人がいるとしたら、まさかそんな人はいないであろうが、もしいるとしたら、その人の考え方は間違っている。

2014日々の聖句 11月11日(火)
遠くから流れる冷たい水が涸れることがあろうか。わたしの民はわたしを忘れた。(エレミヤ18:14~15)
イエスの言葉:エルサレム、エルサレム、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(マタイ23:37)
私の黙想:
レバノン山脈から流れ出る雪解け水は涸れることがなかったのであろう。ガリラヤ湖を通りヨルダン川を経て死海に注ぐ。いわば豊穣なパレスチナの生命の水だ。これが涸れるようなことがあれば全パレスチナが滅びる。日本で言うと富士山の地下水のようなイメージ。つまり絶対にないことについての文学的表現。イスラエルの民がヤハウエ信仰を捨てるということは、それほど絶対にあってはならないこと。それが現実に起こっている。「絶対」が崩れた。ところが民はそのことに気がついていない。「わたしの民はわたしを忘れむなしいものに香をたいた」(15節)、これはヤハウエの言葉であると同時に預言者の悲痛な声でもある。イスラエルにおいては絶対にあってはならないことが、現実に起こっている。民は、あるいは民の指導者たちはヤハウエ信仰を捨てたわけではない。彼らは言うであろう。「われわれはヤハウエ信仰を捨てたわけではない」と。時代は変わったのだ。現在のこの状況下では、多少、異教の神を取り入れてもいいではないか。このようにして「絶対」が崩れ、宗教の多様化、相対化が始まる。そういう状況においてエレミヤは民に警告する。この警告の言葉が面白い。「(ヤハウエはあなた方に)背を向け、顔を向けない」(17節)。民はエレミヤを邪魔者として社会的に抹殺する(18節)。その抹殺の言葉も面白い。「彼らは言う。『我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい』」。要するに「われわれには祭司もいるし、賢い者もいる。預言者だっている。もう、エレミヤがいなくても不自由しない!」。

2014日々の聖句 11月12日(水)
主はわたしを厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった。(詩118:18)
あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(1ペトロ4:12~13)
私の黙想:
本日の詩は、何か特別な出来事が想定されている訳ではないようだ。むしろ一般的な感謝の詩で、おそらく神殿での神事の際のプロセッションで歌われたものと思われる。従って18節の「懲らしめ」もなにか特別な苦難というよりも人生の一般的な苦難(不条理)と見做す方が良さそうである。むしろパウロの次の言葉の詩的表現と考える。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)。
「人生苦」という言葉がある。それは幼子のように無邪気に生きる ということの対極にある。もちろん幼子にだって苦しいこと、嫌なこと、泣きたくなることだってある。いや事実、泣いている。そのほとんどは大人が原因になっている。にもかかわらず幼子は「人生苦」なんて言わない。単にその言葉を知らないだけではなく、人生をそういう風には受け止めていない。他の人々と比べて自分は不幸だという発想もない(ように見える)。その生き方を見ていると、(そもそも「生き方」という言葉が彼らには似合わない)、どこかで、必ず、道が開けると信じているのであろう。(しかし、事実は苦しいままに死んでいくことが決して少なくない)。しかし、にも関わらず、必ず「逃れる道」が到来すると信じ、待っている。人生を幼子のように受け入れるものでありたい。
「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコ10:15)。

2014日々の聖句 11月13日(木)
主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である。主はそれを二枚の石の板に書き記された。(申命記4:13)
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ15:12)
私の黙想:
先ず語句の問題、文語訳も口語訳も新共同訳も「十戒」と訳している言葉は「フランシスコ会訳、新改訳では「十の言葉」と訳されている。ニュアンスはかなり違う。「戒」という言葉はかなり限定された意味を持つ。考えてみると、そもそも、神が人間に「行うべきこと」として命じられていることが、2枚の石に書き記され得るようなものなのだろうか。ここに「人間が行うべきこと」が物体化されたことを意味する。物体化できなような事柄を物体化する、本来もっと自由で柔軟で臨機応変なコト(=モノ)が固定化される。人生にまつわる全ての問題の根源はここにあるのではないだろうか。自由なままではおれない。固定化しないと落ち着かいない。ここに人間の根本的な問題性がある。本質的な事柄は固定化されることによって変質する。人間であるということが「律法化」される。
この宿命ともいうべきコトは人間が「コトバ」を持った時から始まる。人間関係の出発点は「アイコンタクト」である。この接触がやがて、コトバを介してなされることによって友情、恋愛へ、つまり「愛」へと展開する。そこでコトバが果たす役割は計り知れないが、同時に誤解はそこから始まる。「愛」は言葉という枠組みには収まらない。コトバは「愛」を妨げる。「掟」になった愛(ヨハネ15:12)。何か矛盾を感じないだろうか。今日の黙想はそこまでだ。

2014日々の聖句 11月14日(金)
主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちの偶像から離れ、すべての忌まわしいものから顔を背けよ。(エゼキエル14:6)
群衆はバルナバとパウロにいけにえを捧げようとした。ふたりはこれを聞くと、叫んで言った。「なぜ、こんなことをするのですか。あなたがたが偶像を離れて、生ける神に立ち帰るようにと福音を伝えたのだ。」(使徒言行録14:12,14~15)
私の黙想:
ここで「偶像」と呼ばれているものは何か。いろいろあったのであろう。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル等ほとんどの預言者の働きは「偶像」との戦いであった。イスラエルの民の間にそれほど時代を超え、場所を超え、偶像が入り込んでいたのであろう。私は今朝の聖句で「お前たちの」という言葉に反応する。あれや、これやではない。「お前たちの偶像」、つまり「私たちの偶像」「私の偶像」から離れよと言う。人は何でも「私の偶像」とする。何でも「私の」偶像になりうる。人間は偶像が好きなのだ。人間は「生ける神」が嫌いなのだ。人間は「生ける神」から離れ「私の偶像」を作り出す。「生ける神」は私を束縛するが、偶像は私の自由になる。好きなときに、好きなように関われば良いと思っている。しかし、その本質がなんであれ、それが「私の偶像」となる時、私はその偶像に支配されている。偶像もやはり「神」なのだ。しいて言うならば、「生ける神」の対極をなす「死せる神」なのだ。実は私自身は「私の偶像」に慣れ親しむうちに、私自身が死臭ただよう偶像になってしまう。人間性を失った人間になってしまう。

2014日々の聖句 11月15日(土)
わたしは、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、大地を造り、また地上に人と動物を造って、わたしの目に正しいと思われる者に与える。(エレミヤ27:5)
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。」(黙示録:11)
私の黙想:
今日の聖句は、これだけを読むと誤解する。前後関係を読めば、これはエレミヤがバビロン捕囚の人々に向けて送った手紙の一部である。ここでの「わたしの目に正しいと思われる者」とはバビロンのネブカドネツァルを指す(6節)。この背景にはバビロンに服するか、徹底抗戦するかという国論を2分する政治論争があり、エレミヤは「バビロンの王に仕えるな」という預言者は偽預言者である(14節)とまで言い切っている。この時のエレミヤのメッセージは「生きよ」(12節、フランシスコ会訳)という政治的リアリズムがある。エレミヤの「ヤハウエ信仰」はこのリアリズムに基づいている。ここまで読まないと、今日の聖句は誤解される。政治的リアリウムに基づいたヤハウエ信仰。その道は民衆から誤解され、非常に厳しい。
さて、明日はいよいよ沖縄知事選の投票日。政治的リアリズムの戦いである。

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