ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 4/24

2011-05-02 08:33:35 | ローズンゲン
4月24日(日)
主を、わたしは避けどころとしている。(詩11:1)
主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。(2コリント4:14)
私の黙想
今朝は延岡ホテルでイースターの朝を迎えました。イースターおめでとうございます。延岡の天候は快晴。朝6時の太陽が美しく輝いている。宮崎の空は澄みわたっています。今日はいい礼拝になりそうな気がします。

4月25日(月)
わたしの罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています。(詩38:5)
キリストは規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。(コロサイ2:14)
私の黙想
「罪悪」という訳語は詩38でしか使われていない(5.19)。なぜこんな訳語を用いるのか詩38を担当した訳者の説明を聞きたい。同じ原語は普通は「不義」と訳されている。祈祷書訳では「とが」。「罪」に関する訳語はリアルなだけに注意を要する。

4月26日(火)
わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。(エレミヤ31:25)
イエスは群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして五つのパンと二匹の魚を取り天を仰いで賛美の祈りを唱えパンを裂いて弟子達にお渡しになり、弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると十二の籠いっぱいになった。
私の黙想
災害などに負けるな。「元気を出せ」。疲れたら「座り」(休み)、メシを食え。腹一杯になったら、もう一度立ち上がれ。イエスは生活に疲れ果てている群衆を休ませた。

4月27日(水)
わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。(イザヤ54:7)
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)
私の黙想
神のドラマは人間の歴史である。今日の聖句の神における「わずかの間」が歴史においては「相当長期間」になり、個人史においては「一生」になることもある。どうも、こういう神との関わりは日本人としては理解できない。日本人には、神と人間との関係は「一瞬の歴史」である。

4月28日(木)
あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩121:8)
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ロマ14:8)
私の黙想
多分、母の影響だと思うが、何時の間にか今日の聖句は、「我が家」での収入と支出についての言葉だと理解してしまっている。文語訳では「主は今より永久に至るまで、汝の出ると入るとを守り給わん」。一寸変だけで、まぁ、いいではないか。

4月29日(金)
主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。(詩104:24)
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。(ロマ1:20)
私の黙想
要するに天地万物(被造世界)はすべて「理に適っている」ということ、だから「知恵」で把握できるということを言いたいのであろう。ここには「無常観」はない。すべてが明るくて透明である。これが聖書の世界。グチャグチャしているのは人間の世界だけ。

4月30日(土)
主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け、あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。(詩141:8)
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25)
私の黙想
大丈夫。「魂がうつろになる」とは戦闘意欲の喪失であり、一種の「厭戦感」である。しかし私が生きている限り「敵」がいなくなることはないし、生きるということは常に戦うことである。その意味では、私はやはり使徒パウロの影響下に生きているのだと思う。

最新の画像もっと見る