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今週のローズンゲン 2016/03/20~03/26

2016-03-26 16:14:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/03/20~03/26

2016 日々の聖句 03月20日(日)
背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去った。(Issa.59:12~13)

しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。(Tit.3:4~5)

私の黙想:
一点に絞って考える。「わたしたちは自分の咎を知っている」。「知っている」、確かに知っている。知らないとは言えない。私の罪は私に絡みつき、そこから逃れることが出来ない。フランシスコ会訳では小この部分を「わたしたちの罪がわたしたちを告訴する」と訳している。ただ知っているというだけではない。私の罪が私自身を告訴する。新改訳は「私たちの罪が私たちに不利な証言をする」と訳している。私自身の分身である、いや私自身である罪と私自身とが神の前で闘わねばならない。口語訳では「罪は、われわれを訴えて、あかしをなし」。文語訳でも「われらのつみは証ししてわれらを訴え」。これでは勝ち目はないことは明らかである。「知っている」どころか私自身が闘う相手が私自身(の罪)である。日本の諺に「獅子陣中の虫」という言葉がある。この虫は私自身の内部から私私人を害する。私の罪は私自身でありながら、同時に私の敵である。
ここでパウロの嘆きを思い起こす。パウロは次のように告白している。「 『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(Rom.7:22~24)。この深刻な悩みには答えが準備されている。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」。
今日から聖週が始まる。この週の金曜日、イエスは十字架上で死んだ。この死により、私の内部に巣くう罪から解放された。

門叶 国泰 フランシスコ会訳・新改訳の「証言する・告訴する」は59:12aの部分です。

文屋 善明 成る程、私の黙想はちょっと(大いに)ズレましたね。そうすると「わたしたちは自分の咎を知っている」のフランシスコ会訳は「わたしたちは自分の悪行を認める」、口語訳では「不義は、われわれがこれを知る」で、翻訳はほとんど同じ意味を示しているということになりますね。そうすると、本日の黙想は「私たちの罪が私たちを告訴するので、私たちは私の罪を知るあるいは認める」ということにポイントがある。私の罪それ自体が神に私を訴えるので、その結果私は私の罪を認める。成る程、そこがポイントか。

2016 日々の聖句 03月21日(月)
この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる。(Ps.48:15)

だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにし、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。(Heb.12:12~13)

私の黙想:
「死を越えて」、ここでの意味は単純に「死んだ後も」という意味であろうが、黙想すると、それだけには留まらない。この「死」とは人生の最期であると同時に、人間の生の限界、人間の力の限界、思いの限界でもある。人間が「永遠」を思うことの不思議さ。経験したこともないのに「永遠」を考える。「有限」な人間が「無限」を考える。私たちの神はそこでも私を導く。
口語訳でも、フランシスコ会訳でも、新改訳でも、「死を越えて」という言葉は見当たらない。文語訳は面白い。「そはこの神はいや遠長(とおなが)にわれらの神にましまして、われらを死ぬるまでみちびきたまはん」。ここでは「死を越えて」ではなく「死ぬるまで」で限界内の導きである。最後の切り札岩波訳では、「まことに、この神こそ、われらの神、とこしえに、またとわに。この方がわれらを導いてくださる、アルムート」。この最後の「アルムート」について、こう説明している。直訳は「死ぬことで」。Ps9:1の註を参照せよとある。そこを見ると、70人訳では「とこしえに」、ヒエロニムス「死に至るまで」。この言葉を次の詩の表題とすると言う解釈もあるようだ。ともかく「謎」に見たた言葉である。
ヘブライ語聖書対訳シリーズ(ミルトス)では「アる・ムット」(死の上に)。米田豊先生は「我等が死ぬる迄導き、否死を越えて彼処にて更に豊に祝福したもう神である」と解釈して居られる。凄い。

2016 日々の聖句 03月22日(火)
主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。(1Chr.29:11)

イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています。(Heb.2:9)

私の黙想:
この「国」は「ダビデの国」に限らないであろう。すべての国が包括されている。ヘンデルの「メサイア」で歌うように「王の王、主の主」である。この言葉を王であるダビデ自身が言っていることが重要である。フランシスコ会訳では「王権」と訳されている。ダビデの偉大さは即位の時から退位の時まで一貫してヤハウェの王権の前で下僕として仕えた王である。この点が崩れたとき、王位は王の王によって剥奪される。あれほど強固なヒトラー政権にしてもわずかに13年間(1932~1945)しか続かなかった。
国は誰ものものか。今日の聖句はハッキリと国は主のものという。

2016 日々の聖句 03月23日(水)
今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。心を頑にしてはならない。(Ps.95:7~8)

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(Jam.1:22)

私の黙想:
「今日こそ」、「こそ」とは何か。「こそ」が付いているのは新共同訳とフランシスコ会訳だけである。一応、この「こそ」は8節の「あの日」に対応している。口語訳、フランシスコ会訳では「荒野のマッサにいた日」である。文語訳は「汝らメリバにありし時のごとく、のなるマサに在りし日のごとく」と美しい詩的表現となっている。この「こそ」がどこから出てきているのかわからないが、この「こそ」が付けられることによって、「あの日」が常態化し、「今日」という日の決定性が強調される。「今日こそ」あなたにとって人生を決定する日である。今日の決断があなたの人生を決定する。今日、服従するならば、普段の不服従がすべて帳消しにされる。この「今日」とはそういう今日である。相撲でいうと、「ここ一番」で、横綱になれるかなれないかが決まる。人生には、そんな「一番」がある。

2016 日々の聖句 03月24日(木)
神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。(Gen.41:52)

イエスは弟子たちに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」(Mk.14:34)

私の黙想:
今日の聖句はヨセフがエジプトの地で産まれた次男の名前「エフライム(増やす)」の由来を示している。ちなみに、長男の名前「マナセ(忘れさせる)」で、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と説明されている。長男の名前には少なからず疑問とショックとを覚える。聖書らしくない。次男エフライムの方も、エジプトのことを「悩みの地」ということには考えさせられる。これら二人の息子の名前を賺してヨセフの苦悩が見えてくる。「忘れさせる」「増やす」。ヨセフにとってヤコブの息子であったことは「忘れたいこと」しかし「忘れられない」。
父祖ヤコブは死に際に、二人の孫を病床に呼んで祝福した。その時、弟エフライムに右手を置いて祝福し、兄のマナセに優先させた(Gen.48:1~20)。この場面は面白い。
ヤコブの12人の子供によって構成されているイスラエルの12氏族において、ヨセフの二人の子供はヤコブの遺言により、ヤコブの息子と同等の祝福を受け2つの氏族になっている。(無くなっているのはレビ族である)。南北に分裂したとき、北のイスラエルを代表したのがエフライムである。

2016 日々の聖句 03月25日(金)
主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に、あなたのまことを告げ知らせます。(Ps.89:2)

神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(2Cor.5:19)

私の黙想:
「あなたのまこと」改めてこう言われると考え込んでしまう。人間に「神の真(エムナテハー)」を理解し、告げ知らせることが出来るのだろうか。難しい語義は分からないが、おそらく「あなたのアーメン」である。この詩には「あなたのまこと」あるいは「わたしの真実」が7回繰り返されている(2,3,6,9,15,25,34)。
今日は受苦日である。ローズンゲンの編集者がこの詩をそれを意識して選んだのかどうか分からないが、多少強引に結び付けると、御子の十字架こそ「神の真実」の現れであることを述べた詩であると言うことができるであろう。

2016 日々の聖句 03月26日(土)
耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。あなたの僕であるイスラエルの人々のために、今わたしは昼も夜も祈ります。(Neh.1:6)

イエスの祈り:聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。(Jn.17:11)

私の黙想:
山我哲雄氏は『聖書時代史、旧約篇』で、ネヘミアの時代のことをこう述べている。「第2神殿のの完成(前515年)からネヘミヤ、エズラの登場までの約70年間のユダヤの歴史は、史料不足から具体的なことはほとんど知られていない。しかし、ほぼこの時代のものと思われるマラキ書や後のネヘミヤ記からは、当時の一般的な状況を推測することができる」と述べた上で、当時の状況を次のようにまとめている。神殿は再建されたが、「礼拝や祭儀は形骸化し、社会的矛盾が拡大し、国土の大半は廃墟のままである(Neh.1:3)」。人々は献金を怠り、安息日は守られず、聖職者たちも堕落していた(Neh.13:4~11)。役人や富裕階級などの強者による弱者の抑圧が進み、貧しい者は奴隷の身分に落とされた(Mal.3:5、Neh.5:1~5)。ちょうどその頃、ペルシャ帝国はギリシャとの2度のペルシャ戦争(前490,480年)に敗れ、国庫の立て直しのため増税がユダヤ人にも経済的負担となっていた。
こういう状況において、ユダヤ人ネヘミアは憂国の志を抱き、ペルシャ帝国と交渉して「ユダヤ人の総督」としてエルサレムに派遣されたのである。
今日の聖句は、そういう状況にけるネヘミアの祈りである。ここでの「今わたしは昼も夜も祈ります」という場合の「祈り」は行動である。祈りは行動となり、行動は祈りとなる。ペルシャの役人・総督として祖国に派遣されたとは言え、ペルシャの手先になって「美しいイスラエルを取り戻す」なんていうような指導者ではない。

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