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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/05/08~05/14

2016-05-14 14:30:28 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/05/08~05/14

2016 日々の聖句 05月08日(日)
主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事を謀る者の手から助け出される。(Jer.20:13)

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(Rom.12:12)

私の黙想:
今日の聖句、ただこれだけを読んでいると特にどうっていうことない信仰者の言葉であるが、これを12節から続けて読むと、平凡な言葉ではないことが分かる。12節、新共同訳がかなりリアルに表現しているので紹介しよう。「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め見抜かれる方よ。わたしに見させてください。あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明けお任せします」。信仰者の穏やかさの中に秘められた「恨み」「怨念」は凄まじい。パウロも言う。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」(Rom.12:19)。ヘブライ書の著者もいう。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と言い、また、『主はその民を裁かれる』と言われた方を、わたしたちは知っています」(Heb.10:30)。これが、ユダヤ人の民族的なキャラになっている。

2016 日々の聖句 05月09日(月)
わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。(Ezek.16:62)

あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。この福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。(Col.5~6)

私の黙想:
昨日はエレミヤの預言、今日はエゼキエルの預言。バビロン捕囚の前と、捕囚の終わり頃。状況が違う。「わたしがお前と契約を立てるとき」、ここでの「契約」はアブラハム、モーセ、ダビデの時代とは異なる。神とイスラエルとの契約は時代によって異なる部分と一貫している部分とがある。同じ預言にしても、イザヤの預言、エレミアの預言、エゼキエルの預言とその内容は異なる部分と一貫している部分とがある。エゼキエルの預言においてはバビロンからの解放と「新生イスラエル」つまり「ユダヤ民族の成立」に関わる。この預言が成就するときが「契約が立てられるとき」であり、そこでイスラエルの民は神はヤハウェであること、あるいはヤハウェが「神であること」を認識する。それ以前とこれからとの違いは何か。決定的な面はバビロンにおいて「他の神」を知ったことである。もちろんそれまでも「異教の神」を知っていたが、バビロンでの生活を通して、決定的にその違いを知った。それまでの「異教の神」「偶像」に違いがなかったが、 バビロンにおいて「偶像のグレイトネス」を実感した。それに対して「不可見の神としてのヤハウェ」をいやが上にも体験した。しかし、いかにグレイトな神であれ、歴史は動かさないが、ヤハウェは世界を変える、働く神であることを経験した。

2016 日々の聖句 05月10日(火)
今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。(Zec.8:13)

パウロの手紙:独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。(2Cor.3:5)

私の黙想:
ゼカリアは預言者ハガイとバビロン捕囚後のユダヤ民族の復興、特に神殿建築に貢献した人物である。今日の聖句は13節の一部であるが、全体を読まないと意味が明白にならない。「ユダの家よ、イスラエルの家よあなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが今やわたしが救い出すのであなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい」。ここで注目される点は、「ユダの家」と「イスラエルの家」とが併記されている点で、実はこの時点でバビロンの捕囚とそこからの解放を経験しているのは「ユダの家」だけで、「イスラエルの家」と呼ばれている部族は、もうすでにアッシリアによって滅ぼされ、ほとんど消滅している。その意味で、ここで「イスラエルの家」に触れているのはかなり強烈な印象を示している。あなた方はかつて「諸国の間で呪いとなった」とは、呪われた民族として見做されていたということを意味する。しかし、これからはエエルサレムに神殿が再建されそこにヤハウェが住まうことによって諸国の間で「祝福」となる。つまり、祝福された民族となる、という意味であろう。
まさに、日本は諸国の間で、軍国主義で、破壊もたらす、危険な民族とされ、嫌われた。しかし、これからは諸国の間で、世界に平和をもたらし、その生産力によって諸国民を豊かにする民族として尊敬される民族にならねばならない。

2016 日々の聖句 05月11日(水)
主なるわたしはあなたを救い、あなたを贖う者、ヤコブの力ある者である。(Isa.60:16)

イエスは子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。(Mk.5:41~42)

私の黙想:
ここでの「お前」とは「エルサレム」を意味している。勿論それはイスラエル民族を指し示す「擬人法」であろう。ダビデの町エルサレムが「主の町」と呼ばれ、「イスラエルの聖なる方のシオン」と呼ばれるようになる(14節)という。シオニズムの一つの根拠。16節の前半の言葉は恐ろしい。「あなたは国々の乳に養われ、王たちを養う乳房に養われる。こうして、あなたは知るようになる」。今日の聖句は、「その知るようになる」の内容である。エルサレムが諸国を搾取して世界の中心になることが「堂々」と謳われている。

2016 日々の聖句 05月12日(木)
恐れてはならない。おののいてはならない。(Josh.8:1)

信仰の戦いを立派に戦い抜きなさい。(1Tim.6:12)

私の黙想:
モーセの後継者ヨシュアは軍事政権だ。原住民が平和に過ごしている土地に無理矢理に侵入し、征服し、「ここはヤハウェから与えられた私たちの土地だ」という。特に8章の「アイの征服」の記事は読むに絶えられない。ともかく、いくら「霊的解釈」とはいえ、こういう記事を礼拝で読み、説教する神経を疑う。
私の教名は「ヨシュア」。
原爆を落として一瞬にして何十万の人命を奪った国の王様が来て、慰霊の花を捧げるという。しかも、謝罪をしないという。謝罪したからといって、どうにかるわけではないが、せめて、死んでいった人々の前で、「恐れ、おののいてほしい」。

2016 日々の聖句 05月13日(金)
赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです。(Ps.130:4)

神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。(1Joh.1:7)

私の黙想:
今日の聖句の「あなた」はヤハウェであろう。しかし、この聖句は必ずしもヤハウェだけのことではなく、私たちの間の人間関係においても、人を「赦せる人」は、畏れ敬われる。ここで「赦し」と「畏れ」とが対比されているのがポイントであろう。普通、「赦せる人」はなめられる、と考える。しかし、本当に誠実な人の間では、赦せないことを「赦すること」は、「畏るべきこと」なのだ。そして、それが本当の「尊敬」である。今日の新約聖書の聖句はこれに呼応している。「神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら」、相互の尊敬が成立する。

2016 日々の聖句 05月14日(土)
あなたの隣人の妻を欲してはならない。(Deut.5:21)

実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避けなさい。(1Thes.4:3)

私の黙想:
さてと、今日の聖句、何を黙想したらいいのだろう。「他人が大切にしているものを欲しがってはいけません」か、「あなたにはあなたが大切にしなければならないものがあるでしょう」か、「自分のものと他人のものとを比較するのは止めなさい」か。いずれにしても、いい黙想にはならない。
さすがに申命記の著者もこの句については「説明」が必要だと思ったのか、「隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない」と解説している。要するに、そういうことである。フラッとフランシスコ会訳を見ると、「お前の隣人の妻を貪り求めてはならない」とあり、かなり生々しい。文語訳でも、「貪るなかれ」と訳している。口語訳でも「むさぼってはならない」。この「貪る」とはどういう意味であろう。どうやら、この言葉にはただ欲しがるという意味だけではなく「飽きることなく欲しがる」「際限なくある行為を続ける」という意味らしい。一生かけても使い切れないほどの財産を持っている人間が、僅かの税金を惜しがって、税金の安い国に財産を預けるような行為、これが「貪る」という意味らしい。この字、よく見ると「貧しい」という字に似ている。

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