ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今日と明日の出会い(キリスト教保育)

1995-11-07 20:21:05 | 小論
今日と明日の出会い
イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」(ルカによる福音書第12章54節以下)
わたしたちは「今日」と「明日」が接し、出会っている場所で働いている。わたしたちは「今日」に属し、園児たちは「明日」に属している。現在はわたしたちの時代であるが、未来はこの子どもたちの時代である。
わたしが七年前初めて幼稚園に来たとき、園児たちは実に気持ちよくわたしを迎えてくれた。わたしを園長に選んだのは大人の理事会であるが、わたしを本当に園長にしたのは子どもたちである。園児たちの「園長先生」という呼びかけで、わたしは園長になった。
その時の強烈な印象を今でも忘れることはできない。子どもたちには子どもたちの「世界」があった。そのことはわたしにとって新鮮な驚きであった。それまでわたしはそのようなことを考えもしなかった。それまでのわたしにとって、子どもは保護され、教育されなければならない存在であった。しかし、事実はそうではなかった。子どもたちの集団は決して、未完成な社会でも、未熟な国でもなかった。そこは明白な主張をもった、一つの自立した「国」であった。わたしが初めて「子どもの国」に出会ったとき、わたしは自分のことをあたかも「大人の国」から「子どもの国」へ派遣された「宣教師」のような者だという印象を受けた。その瞬間からわたしにとって園長という仕事が牧師の「ついで仕事」ではなく、本業になった。
「宣教師」という言葉にはマイナスのイメージがある。母国の文化や価値観を絶対化し、異国に押しつけるという鼻持ちならない宣教師像がある。もし宣教師に存在意義があるとしたら、自分の国の文化や価値観をしっかり自覚し、大切にしながら、同時に派遣先の文化を尊重し、そこの文化に自分をなじませながら生きる(プレセンス)ということであろう。一つの文化は異なった文化との出会いによって成長する。宣教師の使命は異なる文化の中で自らの文化を変容しつつ、派遣先の文化の中で「ある種の刺激」となって一つのより大きな文化を形成するために生きるということであろう。
 数年前のキリスト教保育連盟の園長研修会で、工藤信夫先生(精神科医)は「キリスト教保育と他の保育との違いは何ですか」という質問に、即座に「仕えることです」とお答えになった。この明晰さにショックを受けた。その後、このことを何度も反芻しているが、やはり答えはこれ以外にないと思う。大人が子どもに仕える。この仕えるという姿勢を貫くことにキリスト教保育の原点がある。
「今日」が「明日」に仕える。「明日」を生み出すために「今日」が自己を犠牲にする。主イエスはこのことをマタイによる福音書24章8節では「産みの苦しみ」と語り、またルカによる福音書の12章50節で「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」とも述べておられる。しかし、この苦しみには希望がある。保育者はあたかも明日の天気を予報するように「今日」、誰よりも早く、子どもたちの中に「明日のしるし」を見分けている。ここに保育者の喜びがある。
(キリスト教保育誌 1995.11)

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