ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 03/25~03/31

2012-04-05 09:03:24 | ローズンゲン
losungenj 2012.03.25(sun)
彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。(Isa49:10)神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。(Tit3:6-7)
私の黙想:
三日前から絶食、絶飲しているのに飢えも乾きも感じない。不思議な体験だ。昨日から薬を飲む程度の水は飲んでもよくなったが、それでもほとんど絶飲と同じ状態である。勿論、私の場合は病気治療とのためで「点滴」で十分栄養分と水分は摂られているが、胃の中は空っぽだ。面白いことに、胃の中が空っぽだと力が出ない。歩くことも、本を読む意欲も出ない。飲食というのはただ生理的欲求に答えるだけのものではないようだ。

losungenj 2012.03.26(mon)
主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける(Jer1:9)
恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 (Act18:9)
私の黙想:重くて厳粛な言葉。これを霊感説のように解釈してはならない。私の言葉、存在そのものが神の言葉である。

losungenj 2012.03.27(tue)
日よ、月よ、主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。(Ps148:3,5) 主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。 (Rev4:11)
私の黙想:
病室の窓から美しい朝日が差し込んでいる。病気になって神の創造の御業の神秘に触れたような気がする。身体の一寸した部分の一寸したバランスが崩れるだけで、人間は全体の能力が著しく低下する。笑うことも、考えることも、まして言葉を纏めるということも不能になる。

losungenj 2012.03.28(wed)
あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで「これは道だ、これに歩め」と言う言葉を聞く。(Isa30:21、口語訳) キリストの言葉:わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことは出来ない。 (Joh14:6)
私の黙想:翻訳が正確かどうか分からないが、今日の聖句では右に行くのも左に行くのも私の決断であるが、その決断を神が「後ろから」それが正しい道だと語って下さるということであろう。神の言いなりであはないが、私と神との親密な関係は崩れないという確信がある。

losungenj 2012.03.29(thu)
まず主の言葉を求めなさい。 (2Chro18:4) 自分が学んで確信したことから離れてはなりません。 (2Tim3:14)
私の黙想:
何処に、その方法は?
1930年のランベス会議(全世界聖公会主教会議)において提唱されたランベス四綱領の第1項目には次のように宣言されている。「旧約および新約の聖書を受け、これを神の啓示にして救いを得る要道を悉く載せたるものと信ずる」。じゃあ、日本聖公会の教会も信徒もこの世での様々な問題について、それ程熱心に聖書で語られていることを求めているだろうか。

losungenj 2012.03.30(fri)
王たちは(私の僕を見て)、だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟った。(Isa52:15) 弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。 (Mar16:20)
私の黙想:神が支配する歴史においては、人間がまだ経験したことの無い事が「明日起こる」可能性を秘めた世界である。いわば「想定外」は当たり前のことである。「想定外」が問題になるのは、「当然の想定外」を想定できない人間の不遜さにある。「想定外の範囲を限定して成り立つ」科学技術の大欠陥。

losungenj 2012.03.31(sat)
わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救ってくださる。 (Ps55:17) 神は、わたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。 (2Cor1:10)
私の黙想:私が若い頃、こんな歌が流行った。とても明るくて健康的な歌だ。「♪あなたと呼べ~ば、あなたと答える♪」。しかし今少し冷静に読み返して見るとこの歌の2人は向かい合っていない。彼は誰もいない空間に向かって「あなた」と呼びかけている。それに対するエコーは彼女の声ではなく、自分自身の声に過ぎない。彼の「あなた」は、「汝と我」(向かい合うべき人格関係)の「汝」になっていない。
イスラエル人が呼びかける「あなた」とは断じてエコーではない。

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