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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/2/18~2/24

2018-02-24 10:11:42 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/2/18~2/24

2018 日々の聖句 2月18日(日)
シオンよ、恐れるな、力なく手を垂れるな。お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。(ゼファニア3:16~17)

萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、(足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、)自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。(ヘブル12:12~13)

私の黙想:
この章は「災いだ、反逆と汚れに満ちた暴虐の都は」という呪いの言葉で始まる。そこで呪われているのはエルサレムである。そしてその退廃ぶりがるる描かれている。エルサレムは堕落しきっている。ヤハウェはそれを怒っている。当然だろう。そのヤハウェの怒りは異民族からの攻撃と支配という形で現れる。「今」エルサレムはそういう状況にある。彼らはヤハウェから見棄てられたと思い、恐れ、落ち込んでいる。
しかし、それでもヤハウェだけは彼らは「必ず、お前はわたしを畏れ戒めを受け入れる。わたしがどんなに罰してもその住む所が断たれることはない」(7節)と信じている。だからヤハウェイスラエルを見棄てず、イスラエルに住み続けている。にもかかわらず、イスラエルは自棄になってますます堕落する。実に複雑だ。その複雑さが今日の聖句である。
面白いことに、こういう場面ではエルサレムのことを「シオン」という点である。

2018 日々の聖句 2月19日(月)
もし主に仕えたくないというならば、(川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、)仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。(ヨシュア24:15)

こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。(1コリント4:1)

私の黙想:
今日の聖句のポイントは、最後の1行だけである。「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」。この時のヨシュアは、モーセの後継者として、押しも押されもしないイスラエル族のトップリーダーである。モーセと同じように「俺に付いてこい」と一言声をかければ、誰もそれに逆らうものはいない。しかし、敢えて独断的な態度をとらない。
ヤハウェが約束された土地とは言え、カナンの地に入っていくこと、そしてそこに定住することは、ある意味で出エジプトより大きな苦労が予想される。「逃げる」よりも「入る」方が難しい。この困難な事業をまっとうするためには、これに関わる人すべての心が「一つ」にならなければならない。不満のある者、不本意な者、力によって強制されて従う者は組織全体を弱体化する。
今日の聖句、ツッコミ始めるとイスラエル全史において決定的に重要なアンフィクチオニーの問題に触れなくてはならなくなるが、それは朝の黙想の枠を越えているので触れないこととする。ただ、この聖句は文屋家にとっては「家訓」とも言える言葉で、両親が大阪で最も小さい教会を開拓する時、繰り返し口にしていた言葉は「去るを追わず、来たるを拒まず」というのがモットーでした。その姿勢は私の中にも受け継がれている。

2018 日々の聖句 2月20日(火)
恵み深く憐れみに富む主は、驚くべき御業を記念するよう定められた。(詩111:4)

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。(1コリント10:16)

私の黙想:
今日の聖句は語順が変えられている。「主は恵み深く憐れみに富む」という言葉は、次節以下の文章に組み入れられている。今日の聖句の本体は、「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」である。しかし、じっくり考えて見ると、「御業を記念するよう定められた」ということは面白い。通常はみ業を行う時にこれは「記念にされる」ということを決めてかかると言うことはない。はっきり言って、そうだとしたら何かしらいやらしさが伴うだろう。「記念する」というのは、後の時代の人が、振り返って「あの事業を記念しよう」ということになる。この詩の詩人がどういう意味でこの言葉を述べているのか分からない。
旧約聖書の基本的視点は五書に述べられている民族の形成と成立を思い起こすという点にある。その意味では、アブラハム、イサク、ヤコブ等の父祖たちの伝説的な事象、出エジプトからカナンの地への定着の歴史を「記念」するというのが彼等の民族史である。
ということで、もうすでにお気づきのことであろうか、使徒たちによる教会形成はイエスの事象の「記念(思い出し)」である。

2018 日々の聖句 2月21日(水)
あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神である。(イザヤ52:12)

わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。(ヘブル2:1)

私の黙想:
イザヤ書52章のテーマは祖国エルサレムへの帰還である。そのことについて、急いで出る必要もないし、逃げるようにして出発する必要もないといわれている。そこが出エジプトと違う。刑期を終えた者として堂々と出てくればいい。
ここで用いられている「しんがり」という用語が面白い。漢字で書くと「殿」で、どちらかというと軍事用語で後退する部隊の中で最後尾の守りを担当する部隊を意味する。後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいう。 もともとの言葉は「後駆(しりがり)」の変形であると言われている。
文語訳では「汝ら急ぎいづるにあらず、趨(はし)りゆくにあらず。 主は汝らの前にゆき、イスラエルの神はなんぢらの軍後(しんがり)となり給ふべければなり」。岩波訳では「あなたたちの前を行くのはヤハウェ、あなたたちのしんがりとなるのはイスラエルの神」と訳している。フランシスコ会訳では「背後の守りを固められるから」という。
堂々とでていくのであるから、後陣を守る必要はない筈だが、これを語る預言者も、聞く者も、先祖たちがエジプトを出た時のことを思い起こしているに違いない。
出エジプトの際には、エジプト軍が後ろから追いかけてきた。そして例の紅海徒渉という奇跡が起こったのであるが、その前に、次のような場面がある。
「イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった(出エジプト14:19~20)。
出エジプトの際にはヤハウェの臨在を示す「火の柱」と「雲の柱」とが烏合の衆にすぎないイスラエルの民を先導したと言われている。エジプト軍が後ろから接近してきた時には「雲の柱」が、イスラエルの「しんがり」となった。
そう言えば、むかしのキリスト教新聞には「雲柱」という主筆のコラムがあったが今はどうなっているのだろう。賀川豊彦が好きな言葉であったのだろう。これが「火の柱」でないところが面白い。

2018 日々の聖句 2月22日(木)
神は(人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。)言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。(民数記23:19)

イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。(マタイ14:31)

私の黙想:
今日の聖句では括弧内が省かれている。当然すぎることだからであろう。しかし、考えて見ると、今日の聖句の部分だって当然すぎるほど当然のことである。(影の声、神も悔いることもありますよ。)建前としては、当たり前すぎるほど当然のことである。そうでなければ神と人間との違いが分からなくなる。
実はこの部分は実にややこしい、バラムとバラクとの対話、というか討論というか、論争が展開する。何度読み、何度覚えてもいまだに私は「バラム」と「バラク」との区別がつかない。
こういう個所は真面目な注解書を調べるよりは、チョットふざけたような本の方がが参考になる。
ということで、先ず聖書全体を週刊誌調にまとめている『週刊聖書(総集編)」(なあぷる)などの解説が面白い。本文では絵付きであるが、テキストだけを書き出すと次のようになる。
————タイトルは「有名占い師に聞く」、サブタイトルに「バラムさんの『最近あったチョット不思議なはなし』で、————
まず、編集者の言葉から始まる。「今回の「有名占い師に聞く」は、ペトルに住むメソポタミアの有名な占い師。
編集者「この度モアブ王バラクから、じきじきに招かれたそうですね。どういう用件だったのですか」。
バラム「最近、イスラエル人たちがヨルダン川流域のモアブ平野に宿営するようになったのは、ご存じですよね。そこを統治していたのがバラク王だったわけです。王は、イスラエル人たちを脅威と感じ、彼等が攻めてくるのではないかと恐れおののいていました。そこで、私に対して、イスラエルの民に呪いの言葉をかけるように頼んできたのです」。
編集者「それでも、なかなかいい返事をなさらなかったとか」。
バラム「はい。何度もお使いを頂きましたが、最初のうちは、私はどうしても伺うことはできませんでした」。
編集者「どうしてですか」。
バラム「私がイスラエルの民を祝福しているのだから、彼らを呪ってはならない、と神様が仰ったのです。しかし3度目の使者が来た時、条件付で、モアブ王に会いに行くことが神様から許可されました」。
編集者「その条件とは?」。
バラム「要請通りのことをするのではなく、神様のいうことだけに従え、と」。
(その途上での、喋るロバのエピソードは省略)。
さて、バラムさんはいよいよ神の導きのもと、バラク王と会見することになりました。
バラム「神様のお告げによって、イスラエルの民が祝福された存在だということが分かったんですよ。そういうことなら、神様に逆らうわけには生きません。私は呪いをかける代わりに祭壇に捧げものをし、イスラエルの民を祝福する歌を歌いました」。
編集者「それでは、バラク王は怒ったことでしょう」。
バラム「もちろんです。でも、私は、主が告げられることだけをするというのが約束だったので、と聞き入れませんでした。3度祝福した時、バラク王は激怒して、手を鳴らして抗議して来ました。敵に呪いをかけるために呼び寄せたのに、祝福を与えるとは何事だ、というのです。そこで私は追い返されました。その前に、王や近隣諸国はイスラエル人に滅ぼされだろう、と捨て台詞を残してやりましたけどね」。
————こうしてイスラエル人たちに呪いをかけようというバラク王の企みは失敗しました。(以上)
以上が今日の聖句の背景になる出来事である。この物語をどう解釈するかは各自に許されている。

2018 日々の聖句 2月23日(金)
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。(詩34:7)

悲しむ人々は、幸いである。その人は慰められる。(マタイ5:4)

私の黙想:
旧約聖書、新約聖書を通して貧しい人々、悲しむ人々への配慮の言葉が意外に多い。キリスト者たちはそのことの異常さに気付いていない。かの巨大なローマ帝国がキリスト者への迫害するものからキリスト教を公認するに至ったその理由は、実はキリスト教における貧しい人々への配慮であったという。現在読んでいる「始めて読む人のローマ史1200年」で、ローマがキリスト教を公認するに至った理由として次のように述べている。ローマで始めてキリスト者になった人々は、実は社会における最下層の人々であった。それは「キリスト教が貧しい人々ほど神に愛され救われる」と、説いたことと関係している。国家の力が衰えると、それまで虐げられていた下層の人々の怨念が物事を動かす大きなエネルギーとなる」。
どうやら、社会的弱者(貧しい人、悲しむ人、泣いている人)をキイにして聖書を初めから読み直さなければならないようだ。

2018 日々の聖句 2月24日(土)
(エルサレムよ、)あなたの心の悪を洗い去って救われよ。いつまで、あなたはその胸に、よこしまな思いを宿しているのか。(エレミア4:14)

あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブ1:21)

私の黙想:
「洗い去る」と「洗い清める」(口語訳、フランシスコ会訳)と同じことだろうか。「去る」という言葉が気になる。余程汚いモノを洗っている感じがする。新改訳、岩波訳では「心を洗って悪を除け」となっている。成る程、やはり除くのだ。「心の悪」とは取り除くことができるような「汚れたモノ」ではないだろう。むしろ「心の在り方」であろう。
文語訳では「汝の心の惡をあらひ潔めよ」、こういう言葉になると、私の中の元ホーリネスがうずく。ホーリネス教団での「ホーリー」を漢字では「聖潔」と書く。そこには英語のholy(汚れのない、神聖)では表現できないものがある。重点は「聖潔」の「聖」の方ではなく、「潔」の方へのこだわりである。口語訳等の現代語訳聖書では「潔」という漢字を単独で「きよい」という表現では用いられていない。ほとんどが「潔白」とか「不潔」「純潔」という言葉として出てくる。「潔」が単独で用いられる場合は「いさぎよい」という意味である。私は「潔」の核心的意味はこの「潔さ(いさぎよさ)」であると思っている。だから、聖人とは「潔い人」という意味であろう。
今日の聖句でいうと、自分自身の中にある「(よこしまな)思い」で、それがよこしまであるか否かではなく、自分自身の思いに囚われている自己、エゴイズムを潔く捨てる姿勢が、ここでは問われている、と解釈する。
この聖句は人間についての言葉ではなく、エルサレムという都市の在り方である。ここは「ダビデ以来のナンとかカンとか」「神の宿る神殿がどうのこうの」ということに囚われている限り「潔さ」がない。

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