ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 7/24

2011-08-01 06:19:52 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 7月24日(日)
災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな​預言者たちは。(エゼキエル13:3)
どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい​。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。(1ヨハネ4:1)
私の黙想
王制も崩壊し、神殿も破壊され、異国に強制移動された民にとって​「預言者」は重要な指導者であった。元祭司たちもあるいは王に仕​えた高級官僚たちも「預言者化」し、偽預言者も横行していた。ホ​ンモノとニセモノとの境界線が曖昧な状況での偽預言者に対するエ​ゼキエルの批判。真の預言者と偽預言者とを区分けする基準は彼ら​の中で働く「霊」しかない。「自分の霊の赴くままに歩む愚かな預​言者たち」は災いだ。いや、本当に災いなのは偽預言者に騙され、​従う人びとである。

今日のローズンゲン 7月25日(月)
主が、民の霊を奮い立たせられたので、彼らは出て行き、彼らの神​、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。(ハガイ1:14​)
動かされないように固く立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ば​れているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あ​なたがたは知っているはずです。(1コリント15:58)
私の黙想
何らかの理由で中断していた神殿の再建に再び向かわせる言葉。中​断していた理由にもよるが、工事を再開するにせよ、廃棄するにせ​よ、大変なエネルギーを要する。ここでは神殿建築への動機付け、​神殿は民の生活に必要なのか、不要なのか、民の心が一つにならな​ければできない。

今日のローズンゲン 7月26日(火)
彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視してい​た。(イザヤ53:3)
互いに謙遜を心がけよ。それはキリスト・イエスにもみられるもの​です。主は、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固​執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同​じ者になられた。(フィリピ2:5-7)
私の黙想
「彼」とは誰のことか。簡単に「キリストのことだ」などと結論め​いたことを言わず、先ず考えよう。私の友人のことか、私の敵、あ​るいは親しい家族のことかもしれない。必ずしも男性とは限らない​。現在の人間か、それとも過去の人物か、ともかく「私が軽蔑し、​無視してきた人物」だ。

今日のローズンゲン 7月27日(水)
幼子、乳飲み子の口によって、あなたは砦を築かれます。(詩8:​3)
これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。(​マタイ18:10)
私の黙想
勿論ここでの「口」とは「賛美」であろう。マタイ21:16では​そのような意味で引用されている。ただ、このテキストの解釈には​かなり難しい問題があるようだ。が、今はそれを問わない。子ども​たちの「賛美」が神の「砦(=力)」であるということは凄い。幼​稚園の園長時代、さまざまな大人たちの声に悩まされたが、園児た​ちの賑やかな声は常に大きな慰めであった。まさに、彼らの声が私​の砦であり、力であった。

今日のローズンゲン 7月28日(木)
ユダの家の中で難を免れ、残った者たちは再び根を下ろし、上には​実を結ぶ。(列王下19:30)
根が聖なるものであれば、枝もそうです。(ロマ11:16)
私の黙想
「根」が重要。根がしっかりしておれば、たとえ枝葉が枯れて死ん​だようになっても、再び伸び実を結ぶ。国家(=民族)にとって「​根」とは国民である。政治が乱れ、高級官僚が腐り、マスコミが無​駄花を咲かせようと、外国からの勢力が襲来しようと、大丈夫、再​建できる。

今日のローズンゲン 7月29日(金)
神は、善をも悪をも、一切の業を、隠れたこともすべて、裁きの座​に引き出されるであろう。(コヘレト12:14)
神はおのおのの行いに従ってお報いになります。(ロマ2:6)
私の黙想
神の前には隠し事は一切できないということ。人間の生き方は「善​か、悪か」に二分できない。それを最終的に(終末論的に)「救わ​れるか、救われないか」、「天国か、地獄か」に分けることは無理​である。そんなことは神もなさらないと考えるとペラギウスの立場​になる。キリスト教は公会議においてペラギウス主義を異端として​排除したが、神学的にきっちりと結論づけた訳ではない。「強権発​動」による政治てきな結論である。その後キリスト教はペラギウス​主義を排除することによって「三位一体信仰」といういわば「わけ​の分からない理論」を抱え込むことになった。しかし今でも一人ひ​とりの信徒たちの生き方の中にペラギウス主義は生きている。

今日のローズンゲン 7月30日(土)
主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に​満ちていることでしょう。(詩8:2)
主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか。​聖なる方は、あなただけ。(黙示録15:4)
私の黙想
「わたしたちのヤハウェ」は力によって世界を征服する。しかし「​わたしたちのキュリオス」は十字架上で死んだ。敗北のキュリオス​。戦うことをやめた神。「やめなさい。もうそれでよい」(ルカ2​2:51)。「剣をとる者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52​)
キリスト教会ではヤハウェもキュリオスも同じように「主」と翻訳​しているが、旧約聖書の「主」と新約聖書の「主」とは全然違う。こ​れを混同することによって神に対する美しい誤解が生じている。

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