ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/06/19~06/25

2016-06-25 08:41:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/06/19~06/25

2016 日々の聖句 06月19日(日)
天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこにわたしのために神殿を建てうるか。(isa.66:1)

その時、「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」と言う者がいても、信じてはならない。(mk.13:221)

私の黙想:
今日の聖句、新約と旧約とを組み合わせると、何と醒めた言葉であろう。新約の方では、「信じるな」といい、旧約聖書の方では、私たちが「神のために」何かをしようと思う「私たちの信仰」を吹き飛ばすような強烈な言葉。新約の方の言葉は「信じよ」という人間の言葉、旧約の方は神の言葉で、私たちが「神のために」何かをしようと思うその心を否定し、ぶち壊す。
何と、私たちは人間の言葉を信じやすく、神の偉大さを矮小化していることか。古代イザヤの時代、このような「思想」が語られたことは驚異的である。

2016 日々の聖句 06月20日(月)
主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。(ps.138:6)

神は、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。(1cor.1:28)

私の黙想:
今日のキイタームは「高い・低い」。今日の聖句の「いましても」の「ても」が気になる。この「ても」が何を言いたいのか。口語訳では平凡に「主は高くいらせられるが、低い者をかえりみられる」。文語訳は面白い。「エホバは高くましませども卑きものを顧みたまふ」。
つまり、高い位置にあるものは高い所にいるものしか関心がないが、ヤハウェは高い位置におられるにもかかわらず、低いところにいる者をキチンと見えておられる、ということの強調である。つまり、現実の人間の世界では、高い位置にある者、権力者、金持ちは彼らだけの優雅なサロンを形成し、そこでの関心事にのみ興味を持つが、低い地位にある者には見向きもしない。例えば、「華麗なる一族」のように。日本の政界の家系図を見れば恐ろしくなる。そして、そこで会話される「価値観」が日本の方向を決めている。彼らが下々に対して嘘をついても平気でおれるのは、彼らを支えるその世界があるからである。上昇意欲が異常に強い男が、学歴や自分の能力によって、這い上がったとしても、彼を叩き落とす権力構造がある。
今日の詩編は、「しかし」、主は違うということを強調している。主はそのような人間社会の「権力構造」を叩きつぶされる。

2016 日々の聖句 06月21日(火)
あなたは、今日、上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないことをわきまえなさい。(deut.4:39)

神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。「我らは神の中に生き、動き、存在する」のです。(act:17:27~28)

私の黙想:
「わきまえなさい」という言葉は面白い。口語訳では「心に留めなければならない」。新共同訳では「わきまえなさい」では通じないと思ったのか、「心に留め」という言葉を補っている。フランシスコ会訳でも「弁え心に留めなさい」、新改訳では「知り、心に留めなさい」。文語訳は親切だ、「知りて心に思念べし」。ただ知っているだけでは駄目で、「心に留める」つまり「思念する」。通常、「弁える」という言葉は、自他の関係を認識するという言葉で、「身の程を弁えろ」というような言い方をする。ここでは神と私たちとの関係を明瞭にするという意味で用いられている。あるいは、私たちにとってはヤハウェだけで、それ以外の者はたとえ他人が神だと信じていても、私たちには関係ない、という意味である。

2016 日々の聖句 06月22日(水)
イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕えることではないか。(deut.10:12)

神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。(1jh.2:5)

私の黙想:
この個所は第1回目の律法(十戒)授与の際に、モーセの下山が遅かったために、イスラエルの民はヤハウェを棄て、偶像礼拝に走った。ここは改めてヤハウェが前のと全く同じ律法を授与した場面である。ここでの「今」とはそういう「今」である。大失敗をしてしまって、そこから立ち直る「今」である。前提が違う。正常な「今」ではない。失敗の後の「今」である。いや、それ以上に、赦された「今」である。イスラエルの歴史において、律法が語られるとき、それはこの大失敗を前提にして語られている。それは神との約束を破り、エデンの園を追放されたアダムとエヴァが神の前に立つとき、常に罪人として立つのと同じ立場である。
聖書では「原罪」というとき、この記憶がある。

2016 日々の聖句 06月23日(木)
あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支えてくださる。(ps.18:36)

神の国は言葉ではなく力にあるのです。(1cor.4:20)

私の黙想:
今日の聖句、これだけ読むと、ただそれだけ。しかし、これに続く後半の言葉がすごい。「あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる」。さらに直前には「手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる」。ヤハウェは私を戦闘員として訓練してくださる、という。まさに軍事力強化である。ただの「支援」ではない。自分で闘えという。
この詩は「主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」と解説されている。この詩で「敵」と言っても「内戦」である。あんまり気持ちの良い詩ではない。
勿論、この詩を読むとき、現実の「戦争」のことを想定して読むわけではない。「霊的闘い」を思い浮かべて読む。まさに「神の国の闘い」であり、「神の国は言葉ではなく力である」ということを想定して読む。
昨日から参院選挙運動が始まった。まさに日本は今、「戦争状態」である。参議院の3分の2を支配されるか、それを守れるかということで、現実の戦争への道が具体化する。何とか、それだけは避けたい。

2016 日々の聖句 06月24日(金)
わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。(ps.34:4)

神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。(jn.1:6~7)

私の黙想:
新約の方の聖句は、明らかに洗礼者ヨハネの日を意識している。ということは旧約の方もそうか、と思うと必ずしもそうとは言えない、そうだとも思える。
ともあれ、一寸気になること。口語訳では「たたえよ」と「あがめよ」とが逆になっている。フランシスコ会訳も口語訳と同じ。新改訳は新共同訳と同じ。岩波訳では、初めの方を「崇めよ」で、後ろを「あがめよう」となっており、前者には「崇める」の直訳は「偉大なものとする」という意味だと解説し、後の方の「あがめよう」は「高めよう」という意味だと説明している。確かにヘブライ語原文でもこれらは別の単語が用いられている。前者は「大きくする」、後者は「高くする」が原意であるらしい。
こんなことを考えていると、一つの言葉を思い起こす。洗礼者ヨハネの言葉である。イエスの名声が上がり、多くの人たちがイエスの方に行ったとき、それを見た洗礼者ヨハネの弟子たちがヨハネのもとに来て、そのことを報告したときのヨハネの言葉である。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」。この言葉を思うと、今日の聖句の「わたし」とは洗礼者ヨハネのように思える。

2016 日々の聖句 06月25日(土)
主の慈しみは、主の契約を守る人、命令を心に留めて行う人に及ぶ。(ps.103:17~18)

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(heb.13:8)

私の黙想:
今日の聖句は、少なくとも15節から読まないと意味が半減する。「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ生えていた所を知る者もなくなる」(15~16)という言葉に続き、 「主の慈しみは(世々とこしえに主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らに)主の契約を守る人命令を心に留めて行う人に及ぶ」と語る。ここでも最も肝心なカッコの中をローズンゲンの編者は省略する。これでは意味は半減するどころか、ほとんど無意味になる。しかし、新約の聖句がそれに対応しているので、ドイツ語版ではカッコの中を省略していないのであろう(と、私は推察する)。
要するに、ここでは人間の儚さに対する神の永遠が強調され、その神の永遠性に対して人間の「世々とこしえ」の誠実さが求められている。永遠の神に対応するのは人間の知恵や努力ではなく、神との契約に対する永遠の誠実さである。この誠実さにおいて人間は儚い人生を克服して永遠である。

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