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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/10/22~10/28

2017-10-28 09:01:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/10/22~10/28

2017 日々の聖句 10月22日(日)
立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように。(歴代誌上22:16)

シモン・ペトロの言葉:先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。(ルカ5:5)

私の黙想:
今日の聖句は、継承者ソロモンに対するダビデの言葉である。神殿を建築したいというダビデ王の申し出に対して、ヤハウェが「あなたは戦争をしすぎた」ということで断り、息子ソロモンにそれを託すように述べられたことを語り、いわば遺言の最後の締め括りである。まだ若く、王位も確立していないソロモンはあまりにも大きな使命が与えられたことに萎縮していたのかも知れない。その彼に「立ち上がって実行せよ」と語るダビデの気持ちはどうだったのか。それを聞いた若きソロモンはどう思ったのか。これがダビデからソロモンへの王位継承の儀式であったのかも知れない。この中で、ヤハウェはソロモンのこと「安らぎの人」という。これを口語訳では「平和の人」と訳している。ダビデが「戦争の人」であったのに対して、ソロモンは「平和の人」だという。戦争の時代から平和の時代への転換である。
今日は衆議院選挙の日だ。戦争を目論む時代から平和外交の時代へ転換できるか、これが私たちの課題である。天候はまさに日本列島全体を嵐が覆う。まさに、嵐の中で平和を祈る。

2017 日々の聖句 10月23日(月)
あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ。(箴言16:3)

あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。(フィリピ2:13)

私の黙想:
今日の聖句は箴言から。つまりユダヤの格言である。格言とは言葉のリズムや歯切れの良さが命(いのち)で、その意味では、口語訳が良い。「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」。ここでは「そうすれば」という理屈っぽい言葉書きになる。その点では文語訳の「汝の作為(わざ)を主に託(まか)せよ、さらば汝の謀(はか)るところ必ず成るべし」は、使われている感じの奥行き、歯切れの良さは抜群である。
「あなたの作為」、「作為」にはマイナスのイメージが伴う。こんな言葉は現代人はほとんど使わないであろう。しかし良い作為だってあるし、作為には主体性が感じられる。その主体性を主に「委託」する。何と深い言葉であろう。「謀る」、これにも謀略というニュアンスが強く、胡散臭い言葉であるが、それは「謀る」内容による。むしろ何かしら、白けた雰囲気の中で「成るようにしか成らないよ」という責任を放棄する気分とは反対の「計画性」が感じられる。「固く立つ」(新共同訳)、「必ず成る」(口語訳)、「ゆるがない」(新改訳)、「達せられる」(フランシスコ会訳)、「堅く立つ」(岩波訳)、それおぞれくふうをしているようであるが、「必ず成るべし」という文語調には勝てない。(2017年衆院製の選挙結果を読んで、黙想する)

2017 日々の聖句 10月24日(火)
あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。(イザヤ65:18、口語訳)

全能者である神、主よ、あなたの業は偉大で、驚くべきもの。諸国の民の王よ、あなたの道は正しく、また、真実なもの。(黙示録15:3)

私の黙想:
何故、今日の聖句は口語訳なんだろう。参考に新共同訳も掲載しておく。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する」。ウーム、成る程。今朝は翻訳の比較は止めておく。むしろ、今日の聖句は、ワンペアの片方だけだということに注目する。口語訳では、この節の後半は「見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする」となっており、明らかに人間の喜びと、神の喜びとが対比されている。おそらく、ここでの「エルサレムを造って」はエルサレムを創造してであろう。つまり、人間は神の創造物を喜びとし、それと同じように神はエルサレムを創造してそれを楽しむということが、ここでのメッセージである。
もう一つ注目すべきことは、この節の前の文章である。「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する」(17節)と述べられ、古い世界に対して全く新しい世界を「創造する」。つまり、ここでは神が新しい世界を「創造する」ことと、エルサレムを「創造する」こととが見事なペア(一対)となっている。これが預言者イザヤが想像した(預言した)、完成された終末の情景である。じっくり読むと、実に味わい深い聖句である。

2017 日々の聖句 10月25日(水)
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。(哀歌3:26)

約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。(ヘブル10:23)

私の黙想:
今日の聖句、このままでもチャンとした文章である。しかし口語訳と比較すると何か違う。「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」。同じような文章であるが、26節の言葉と対比させると問題点がはっきりする。「若いときに軛を負った人は、幸いを得る」(新共同訳)。「人が若い時にくびきを負うことは、良いことである」(口語訳)。若いときの苦労が条件で、それは良いことだ、というのと、若いときの苦労そのものは良いこと(益)だということの違いである。「主の救いを待つ」ということが、幸いを得ることの条件か。それ自体が良いことなんだと言うことかの違いは大きい。結論的には、どちらにでも訳せるのであろうが、他の訳はすべて口語訳と同じで、私も、口語訳の方が好きだ。「幸いを得る」を目的、なしは結果と見るのには何かはしたなさ(功利性)を感じる。信仰においては、「静かに待っている」こと、それ自体がすでに幸いなことなのだ。

2017 日々の聖句 10月26日(木)
正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。(イザヤ56:1)

めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。(フィリピ2:4)

私の黙想:
神による「終極」、それは「救いが実現し」「恵みの業が現れること」だという。ここには人間の行為としての「正義を守る」ことと「恵みの業」が行われることと神による「救い」と「恵みに業」とが並列されている。これら4つの単語の組み合わせは訳語として面白い。最も妥当だと思われる岩波訳では人間の側の行為としての「公儀」に対して神の側の「救い」、「正義」と「正義」とが対応している。興味深いのは、神による「救い」が人間による「公儀」とが対応されている点である。神による「救済」とは人間側でいうと「公儀」なのだ。社会における「公正さ」の実現が、人間にとっての救いである。逆の場合を考えると、公正さが守られていないこと、不公平であることが「救われていない」状態なのだ。この視点は聖書における、つまりキリスト教における「救済論」に新しい視点を与える。

2017 日々の聖句 10月27日(金)
ヤコブの家よ、さあ、われわれは主の光に歩もう。(イザヤ2:5、口語訳)

あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。(1テサロニケ5:5)

私の黙想:
今日の聖句も口語訳から取られている。新共同訳と比べてみると、違うのは「さぁ、われわれは」があるかないかである。確かに、この句がないのは新共同訳だけである。ここではこの「かけ声」が重要な意味を持っている。問題は「ヤコブの家」である。ここでハッキリ述べられていることは、「あなたは)ヤコブの家を捨てられた」ということである。預言者は、ヤハウェから捨てられたヤコブの家に向かって、「さあ、われわれは主の光に歩もう」と語りかけている。
このギャップ。ヤコブの家が捨てられた理由はハッキリしている。「この民がペリシテ人のように東方の占い師と魔術師を国に満たし異国の子らと手を結んだからだ」、要するに異邦人の国と同じようになったからである。もう、救いようがない状況で、捨てられて当然であろう。
ここで「ヤハウェの光の中」を歩むということは何か。ここで問題になっているテーマは、戦争と平和である。ヤコブの家が違法の国と同じように成ってしまったのは、単なる偶像問題ではない。軍事国家として歩くということが厳しく批判されている。ここでのテーマは「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」という有名な言葉で示されている。人類の究極的平和として、ヤハウェによって樹立される理想的者会とは、「武装放棄」この理想を国家として失うとき、軍事力に頼るようになる。「ヤハウェの光の中を歩む」とは、武力に依存しない国家形成に外ならない。これは私が言うのではなく、預言者イザヤが語っている言葉である。

2017 日々の聖句 10月28日(土)
喜びの声をもって告げ知らせ、地の果てまで響かせ、届かせよ。主は僕ヤコブを贖われた、と言え。(イザヤ48:20)

御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタイ24:14)

私の黙想:
イザヤ書48章は、まだバビロン捕囚から解放されていない第2イザヤの時代である。バビロン捕囚の末期、何か国際情勢が不穏な雰囲気がしている。どうやら、あれだけ権力をほしいままにしていた大帝国も陰りが見える。新興国ペルシャの動きもかなり活発だ。ちょうど今の世界情勢と似ている。完全にバビロン帝国に組み入れられているイスラエル民族の運命はどうなるのか。まさに先行き不透明である。そういう状況の中で、預言者は叫ぶ。「主は僕ヤコブを贖われた、と言え」と。ここでは「主は僕ヤコブを贖われた」ではない。「と言え」がポイントである。とうてい、そんなこと言える状況ではない。しかし預言者は「言え」と命じる。まだ実現していない「解放の喜び」を全世界に向かって響かせよ。これが信仰である。ヘブライ書の著者は言う。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」(ヘブル11:1~2)。

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