ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 08/19~08/25

2012-08-26 09:00:28 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 08/19~08/25
losungenj 2012.08.19(sun)
わたしは目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。(Isa42:16)
神は光であり、神には闇が全くないということです。(1Joh1:5)
私の黙想:
「一寸先は闇」という諺がある。これは必ずしも政治の世界だけの話ではない。平穏に出航した筈の船も湖の真ん中で「逆風のため漕ぎ悩む」(マルコ6:48)こともある。心配し出すと切りがない。それが人生である。しかし私たちの神は必ず困難を乗り越える道を準備してくださっている。それが今日の礼拝におけるメッセージである。

losungenj 2012.08.20(mon)
神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。(1Chr28:20)
わたしたちの主イエス・キリストも最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。(1Cor1:8)
私の黙想:
ダビデは王に即位した時、立派な宮殿を建築した。しかし神殿の建築については、一生、神(祭司)から許可が出なかった。このことにより神殿の権威の絶対性を自覚した。そのことにより神殿の建設と保護こそが王としての最も重要な任務だという自覚した。そのことを後継者に伝える。ダビデは、神に仕えるということと民に仕えるということは表裏一体の関係にあるということを明確に自覚した最初の王である。神の前に膝まずく王の姿を見て民は王の前にひれ伏し、信頼する。

losungenj 2012.08.21(tue)
主に造られたものはすべて、主をたたえよ主の統治されるところの、どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。(Ps103:22)
キリストの言葉:あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。(Mat28:19)
私の黙想:
「主の統治されないところ」があるかのような表現が気にかかる。現実に主の統治の及ばない世界があるということに気付く。いや、むしろそこの方が圧倒的な力によって「主の統治されないところ」を脅かしている。主に従う者が世界でマイノリティであるという自覚。「どこにあっても」という言葉は意味深い。

losungenj 2012.08.22(wed)
主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました。(Ps12:2)
命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(Mat7:14)
私の黙想:
この詩人の嘆きはその結果にある。「人は友に向かって偽りを言い滑らかな唇、二心をもって話します」(3節)。神を信じない人間は平気で嘘をつく。つまり人間としての誠実さの根拠は神信仰にある。もし、神が居られないならば、人間は何をしても許される。

losungenj 2012.08.23(thu)
この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。(Isa29:13)
イエスの言葉:神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。(Mark3:35)
私の黙想:
学生の頃、ある非キリスト者の教授が宗教改革者ルターのことを論じながら、つくづく「キリスト教は『良心の宗教』だからね」と語られた。その時、私はハッとして、天啓に打たれたように、良心とは何かということに気付かされた。私はそれまで良心とは何かということを知らなかった。宗教には「形の宗教」と「良心の宗教」とがある。

losungenj 2012.08.24(fri)
わたしの救い、わたしの主よ、すぐにわたしを助けてください。(Ps38:23)
信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。(Jam5:15)
私の黙想:
結局、全ての祈りは今日のローズンゲンの聖句に集約される。これに見合う「私たちの言葉」は聖餐式ごとに唱える「キリエ エレイソン」だ。又、この祈りはロザリオの祈りにも通じる。日本語の「主よ、憐れみ給え」は良くない。「主よ、顧み給え」が相応しいであろう。

losungenj 2012.08.25(sat)
そしてヤコブは、神が自分と語られた場所をベテルと名付けた。(Gen35:15)
キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。(Heb3:6)
私の黙想:
イスラエル民族にとってベテル(神の家)こそ「故郷」である。実家を追い出され放浪するヤコブに神が現れた場所である。本来ならばここにこそ「神殿」を建立し民族魂の原点(ゼロ地点)とすべき場所である。あえて一寸偏った意見を述べるとダビデが軍事的事情を優先し、エリサレムを首都としそこに宮殿と神殿を立てたことは間違いだったのではないか。そこにイスラエル12部族がバラバラになる原因が潜んでいたのではないだろうか。

文屋 善明 「ベテル」について付け加えると、長い放浪の末故郷に帰還し兄とも和解したとき、ヤハウェはヤコブにベテルに帰りベテルに住めと命じる。ここからイスラエルの民は出発する。その時ヤコブは全家族に次のように命じる。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。さあ、これからベテルに上ろう。わたしはその地に、苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神のために祭壇を造る」。(Gen35:2-3)

門叶国泰 日々の聖句(今日のローズンゲン 2012-08-25)
今日のローズンゲンは、創世記35:15です。新共同訳「ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテルと名付けた。」
「ベテル」の原意は「ベート(家)・エル(神)」である。この際、「ベテル」を再確認しておく。
1.創12:7~「シケムの聖所、モレの樫の木に祭壇を築いアブラムは、・・・西にベテル、東にアイを望む所に・・・祭壇を築き、さらに・・・ネゲブ地方に移った。」
2.ヨシュア18:13~「ベテルは、ベニアミン族に割り当てられた。」
3.士1:22~によると、「ベテルは、ヨセフ族に占領された」が、
4.ヨシュア8:17によると、「ヨシュアが率いるイスラエルがベテルを占領した。」
5.サムエル上7:16「サムエルは、ベテルで民を裁いた」が、
6.王上12:29「ヤロベアムはベテルに金の子牛の一体を置いた。」
7.エレミヤ48:13「その後、預言者たちはベテルを偶像礼拝の中心地として厳しく非難し」、
8.ホセア4:15「ホセアは、ベテルをベテ・アーベン(空しき家)とまで呼んでいる。」
対する新約はヘブライ3:6「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」
独りごと:この「神の家」が「空しき家」にならないように!

文屋 善明 あまりにもよく知られているので省略なさったのだと思いますが、ベテルに関して最も重要な聖書の箇所は創世記28章の10節から19節だと思います。本日のテキストもそれを前提にして書かれているところです。

門叶 国泰 ご指摘の通り、前提です。その上で、「神の家」がどのような変遷をしたか、そもそも、アブラムもベテルを中継地扱いしてしまっていた、今、「神の家」はどこにあるのか、「わたしたちこそ神の家」と言えるのか、どれ一つとっても、終わりなき黙想を続けることになりそうです。

文屋 善明 8番目のホセア書の言葉は知りませんでした。感謝。面白いですね。ベテルは常に偶像との関係が問題になっているのですね。

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