ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 1/2

2011-01-10 06:51:37 | ローズンゲン
1月2日(日)
世界のすべての国々は、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。(エレミヤ33:9)
わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。(ロマ5:1)
私の黙想
「神との間の平和」というのが問題。これが人と人、国と国との間の平和を妨げている。何かおかしい。神との間の平和が人と人との間の平和の基礎であるはずなのに。エルサレムに平和を。今日の説教のテキストは詩84「シオン賛歌」です。

1月3日(月)
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる。(イザヤ54:8)
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ロマ3:23-24)
私の黙想
「ひととき」、神にも「一時的」がある。つまり感情の起伏がある。この思想は面白い。

1月4日(火)
わたしは傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。(エゼキエル34:16)
パウロの手紙:主は、わたしに「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。(2コリント12:9)
私の黙想
良きサマリア人を思い起こす。イエスの神観の源はここにある。傷を癒す神。弱いものを強くする神。

1月5日(水)
主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。(詩18:50)
この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように。(ロマ16:27)
私の黙想
この句には諸国民に対するイスラエルの民族的誇りの響きがある。誇りというより「自慢」に近い。神を信じることが自慢になるということは、危険な思想につながる。キリスト者の神信仰も同様。神を信じるということには謙虚さが要求される。自慢すべきことではないであろう。

1月6日(木)
主は死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ25:8)
わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(フィリピ3:10-11)
私の黙想
「死を永久に滅ぼす」とは一体どういう事態を意味しているのだろうか。その場合の「死」とは何か。イザヤの時代の人たちは「死」をどのように考えたのか。同時に「永久に」とは。現代人の観念とはかなり異なる。

1月7日(金)
あなたを避けどころとする人に、慈しみの御業を示してください。(詩17:7)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)
私の黙想
神との一対一の特別な関係は成立するのか。神を信じるということは、そのことを信じることに他ならない。「ただ普遍的な神」は知的対象ではあり得ても、信仰の対象ではないだろう。ここには「ひそかに信じる」という関係がある。

1月8日(土)
わたしは仰せを心に納めています、あなたに対して過ちを犯すことのないように。(詩119:11)
不平や理屈を言わずに行いなさい。それにより、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピ2:14-16)
私の黙想
同じ過ちを繰り返さないように、細心の注意をしなさい。(誤字、誤変換が多すぎる私の反省)

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