ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 3/1

2010-03-06 11:26:47 | ローズンゲン
3月01日(月)
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られませんでした。(詩102:18)
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)
わたしの黙想
「祈りを侮らない」とは面白い表現。神から侮られる祈りもあるということ。もちろん人々からも侮られる。誰の祈りが侮られるのか。「持てる人々」、権力と名声、経済力と・・・・。それは誰か考えよ。詩編では「地上の王」。旧約聖書は激しい。

「ローズンゲンについて」をブログ「ぶんやさんち」にアップしました。ローズンゲンの歴史や使い方など書いておきました。みなさん方のお役に立てば幸いです。
ハッシュタグ「 #losungenj 」を登録しました。ローズンゲンを読んで黙想したり、調べたりした結果を呟く場合は「 #losungenj 」を書き込んでくださると検索の対象になります。最後の「 j 」を省略すると国際版になります。

3月02日(火)
主は天上の宮から山々に水を注ぎ、御業の実りをもって地を満たされる。(詩104:13)
神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはない。(1テモテ4:4) 
わたしの黙想
今日のローズンゲンは壮大な詩である。宇宙船から送られる野口さんの時々刻々の「現場報告」で地球の姿を見ることが出来る。チリの地震と津波も「上から」見た。凄い時代に住んでいるとつくづく思う。しかし旧約の詩人は「神の目」で地球を「神の庭」と言う。

3月03日(水)
主は、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われた。(出エジプト33:14)
安息日の休みが神の民に残されているのです。(ヘブル4:9) 
わたしの黙想
「同行二人」(どうぎょうににん)という言葉がある。 四国を行くお遍路さんたちにはいつでも導師(空海)がついて一緒に歩いてくれている。ここでいう「安息」とは「安楽」ではない。自分自身も汗を流して歩かねばならないが、導師のついている遍路は「安息」になる。

3月04日(木)
大いなる主、限りなく賛美される主、大きな御業は究めることもできません。(詩編145:3)  
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。(1ヨハネ3:1)
わたしの黙想
文語訳では「エホバは大にましばせば最もほむべきかな、その大いなることは尋ね知ること難し」。究めることができないのは、「御業」ではなく神の大きさ。勿論、御業も究め難し。しかし、それは対象の大きさによるのではなく、認識主体の能力の限界。ここに神学の限界。

3月05日(金)
「あなたの慈しみをもって、わたしを力づけてください。あなたの僕への仰せのとおりに」(詩編119:76)
「神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。(ロマ5:15) 
わたしの黙想
「あなたの僕への仰せのとおりに」という言葉を主文の前に置いて方が分かり易い。祈祷書では「仰せのとおりわたしを慈しみ、わたしを慰めてください」。文語訳はもっと分かり易い。「願わくは汝の僕に宣いたる御言葉にしたがいて、汝の慈しみをわが慰めとなしたまえ」。同じ詩(73節~80節)には「汝を畏るる者は我を見て喜ばん。われ聖言によりて望みをいだきたればなり」という言葉がある。だから信仰者は強い。人間たちからどんなに誤解されても揺るぎない。聖書信仰の強さ。

3月06日(土)
敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか。(ネヘミヤ5:9)
キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。(ヘフェソ4:21-224:21)
わたしの黙想
神の民に対する預言者の厳しい批判。この言葉の前に「あなたたちの行いはよくない」という言葉がある。ザアカイの家に立ち寄ったイエスは何も言わなかった。しかしザアカイは生活態度を根本的に改めた(ルカ19:1-10)。

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