ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/07/13~07/19

2014-07-20 20:48:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/07/13~07/19

2014日々の聖句 07月13日(日)
わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。(詩25:7)
憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かしてくださいました。(エフェソ2:4~5)

私の黙想:
あまり翻訳のことについてあれこれあげつらうのは止そうと思う。要するに、「私の若い日の罪を忘れて、恵み深い神自身の目線で」、私を見てください、ということであろう。まぁ、身勝手といえば身勝手であるが、神の前ではそう祈らずに折れない。要するに、私自身のことを考えるならば到底神の前に立ったり、神のことを論じたり、人に向かって説教などできたものではない。もし、神の前に私が立てるとしたら、いや、神の前に立つことが許されるとしたら、それは100%神の恵みによるのである。

2014日々の聖句 07月14日(月)
悪口を言い歩く者は秘密をもらす。誠実な人は事を秘めておく。(箴言11:13)
すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。(フィリピ4:8)

私の黙想:
今日の聖句、本当にその通りである。口語訳は具体的である。「人のよしあしを言いあるく者は秘密をもらす、心の忠信なる者は事を隠す」。ネット社会におけるSNSは気軽に人物評価をしがちであるが、それは非常に危険な行為である。フランシスコ会訳はもっと面白い。「中傷して歩きまわる人は密議を漏らすが、真実な心の人は事を秘める」。何か、国際社会における秘密外交を思わせる。新改訳ではもう少し人間関係に絞っている。「歩きまわって人を中傷するする者は秘密を漏らす。しかし真実な心の人は事を秘める」。なるほど、昔、ラウドスピーカーと呼ばれていたおばさんがいたことを思い起こす。1節の言葉はもっとストレートだ。「 心ない者は友人を侮る。英知ある人は沈黙を守る」。これを文語訳では「その隣を侮る者は智慧なし、聡明人(さときひと)はその口を噤む」。これをフランシスコ会訳では「隣人をさげすむ者は思慮を欠いている。しかし、理性のある者は沈黙を守る」。つまり「隣人を軽蔑している奴は馬鹿で、賢い人はそう思っていても黙っている」ということであろう。マンション住まいの人にとっての金言ですね。
いや、本当に聖書の翻訳って面白いですね。一度嵌り込むと抜け出せなくなる。では、サヨナラ、サヨナラ。

2014日々の聖句 07月15日(火)
神はソロモンに言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉の通りにする。(1列王記3:11~12)
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)

私の黙想:
これがソロモン王の就任の際の祈りである。これがソロモン王の「初心」である。この初心が人生の最期まで貫かれたら、王国は分裂しなかったかもしれない。しかし、初心を貫くことは非常に難しい。それが高い地位であればあるほど、難しい。と、本日はそこで止めておく。

2014日々の聖句 07月16日(水)
わたしは主の御業を思い続け、いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け、あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら、あなたの御業を思いめぐらします。(詩77:12~13)
神が心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、悟らせてくださるように。(エフェソ1:18)

私の黙想:
口語訳では「わたしは主のみわざを思い起す。わたしは、いにしえからのあなたのくすしきみわざを思いいだす。わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う」と、「思う」という言葉が4回繰り返されている。4回とも微妙に異なる。「思い起こす」「思いだす」「思い」「深く思う」。ヘブライ語原典でも微妙に異なる(12節の2つは語形変化のみ)。「思い出す」「思い出そう」「口ずさむ」「語る」。新改訳は「思い起こそう」「思い起こそう」「思い巡らし」「静かに考えよう」。その辺のところを岩波訳は考慮して「思い起こし」「思い起こそう」「思い巡らし」「思い耽ろう」。どの訳がいいとは言えない。
おそらく、これは私の主観であるが、この詩人の朝の祈りの形であろう。「古の出来事」を思い起こす。これは聖書を読み、学ぶこと、それを口ずさむとは、賛美を(詩の朗読)歌い、最後に自分の言葉でそれを確かめる。

2014日々の聖句 07月17日(木)
ノアへの神の言葉:わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、全ての生き物と契約を立てる。それにより、二度と地を滅ぼすことはない。(創世記9:9~10,11)
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:34)

私の黙想:
今日の聖句の鍵は、ノアと神との契約が「全ての生き物」との契約を含んでいるということである。神の目からは、人間も他のすべての生き物も同列に見えているということであろう。特にこの場合、「あなたたちと共にいる」という句が2度も繰り返されている。最もノアの物語では箱船によって共に生き残ったということが含蓄されているのであろうが、ここではこの地球の上に共存している全ての生き物と理解したい。実は、人間とその他の全ての生き物とは大地の上に生きているということによって「運命共同体」なのである。
実は、文化史的に見るとこのノア契約は非常に重要な内容を含んでいる。それはカインとアベルとの対立以来続いている肉食文化と菜食文化との和解がなされているという点である(2節~3節)。ただし肉食についてはかなり厳しい条件と制限とが加えれている(4節~5節)。その上で、人間同士の殺戮については、最大級の刑罰が宣言されている。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。この人間を殺してはならないという戒律はモーセの十戒に先行する人間の根本的定めである。ああ、それなのに、殺人は巷に溢れ、世界の各地で人間同士の殺し合いがやまない。

2014日々の聖句 07月18日(金)
わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。(イザヤ44:6)
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。(ヨハネ1:18)

私の黙想:
神を「始め」と「終わり」として理解している民族、神を時間感覚で把握している民族の歴史観。それは万物との関連で神を空間的に把握している感覚とは異なる。存在感覚は空間的であるが、時間的に捉えられた神は機能的である。神を見た者はいないが、神が働いていることを実感する文化。どちらに正当性(妥当性)があるのか。私はどうしても今読んでいる本に影響を受けやすい。これはいいことか、欠点か。もう少し考えよう。

2014日々の聖句 07月19日(土)
なぜ、わたしと争い、わたしに背き続けるのか、と主は言われる。(エレミヤ2:29)
あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。(ガラテヤ5:7)

私の黙想:
今日の聖句は預言はエレミヤの時代のイスラエルの民に向かって語られた神の言葉である。ここでの彼らの神への反抗とは一言で言って、民族の存亡の危機に際して「今あなたはエジプトへ行ってナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行ってユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか」(18節)という言葉に凝縮されている。つまり民族の根幹である「神への信頼」、要するに「憲法」である。その憲法を棄てて強大国に依存しようとすることである。何も古代ユダヤの歴史を強引に現代の問題に引き寄せようというのではない。民族の存亡というものは常にそういう形で外圧より内部の民族意思の分裂・崩壊から始まるのだということを私たちは世界史からあるいは現在の国際情勢から学ぶ。
今日の聖句の「何故」は、個人に対して、あるいは民族に対して常に神から突き付けられている。何故、私を信じないのか。何が信じることをためらわせているのか。「いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか」(ガラテヤ5:7)。

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