ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 7/25

2010-08-01 04:47:39 | ローズンゲン
7月25日(日)
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えた。(サムエル上3:4)
イエスはフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ1:43)
私の黙想
ここで神が語られた言葉は幼子サムエルには残酷すぎる。神の言葉を聞き出そうとする預言者エリの行動はほとんど脅迫である。なぜ、神は直接預言者エリに語られなかったのか。

7月26日(月)
わたしの掟を忠実に守りなさい。わたしは主であって、あなたたちを聖なる者とする。(レビ20:8)
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。(ガラテヤ5:25)
私の黙想
「わたしの掟」を守れば聖なる者となれるという律法主義の根拠。問題はここでいう「わたしの掟」とは文字で書かれた律法なのか。それなら「文書化された物質」を神とする「偶像礼拝」ではないのだろうか。神を物象化できないのと同様に神の掟も物象化出来ない。
今日の聖句の「わたしの掟」の掟とはトーラーではなくフッカーであるとのこと @togakuniyasu さんから学ぶ。また「聖」について、神の隔絶性ではなく、被造者である人間に創造者として関わってくるという意味であるという船水衛司先生の引用は重要である。感謝

7月27日(火)
遠くにいる者よ、わたしの成し遂げたことを聞け。近くにいる者よ、わたしの力強い業を知れ。(イザヤ33:13)
あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。(1テサロニケ1:4-5)
私の黙想
今日の聖句は「神」が話者になっているが、神がこんなことを語るはずはない。これはイスラエルの民が経験したことを主語を入れ替えた文学的表現。非常に美しい。

7月28日(水)
あなたたちは、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。(出エジプト16:12)
わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。(ヨハネ17:26)
私の黙想
今日の聖句で最も肝心なことは「どうしてそうなるのか」ということである。ローズンゲンの編者は「こうして」という句を省略している。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する」。だから、主であることを知るようになる。成る程、了解。

7月29日(木)
わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかなかった者である。(列王上19:18)
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべてが子という名を与えられています。(エフェソ3:14-15)
私の黙想
いわゆる「残れる者(レムナント)」の思想。思想的にはイザヤ以後の者である。ここではもっと単純に、私たちには知らされていない「神の味方」つまり「私の味方(=理解者)が大勢いるという思想。神の言葉を語る者は孤立しているようで孤立していない。

7月30日(金)
前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる。(詩編139:5)
わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。(ヨハネ16:26-27)
私の黙想
神が前からも、後からも、上からも御手で覆うというイメージは、日本人の神感覚にはない。そういう神は「過保護」ではないか。ハグは相手の自由を奪う。

7月31日(土) 神は時を移し、季節を変え、王を退け、王を立てられる。(ダニエル2:21)
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。(黙示録1:8)
私の黙想
季節の移り変わりと、王の交替とを並べて、共に神の業とするところが面白い。ついでに、続きの言葉も加えて欲しかった。「知者に知恵を、識者に知識を与えられる」。


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