ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/6/10~6/16

2018-06-16 08:48:42 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/6/10~6/16

2018 日々の聖句 6月10日(日)
天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう。(哀歌3:41)

目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。(コロサイ4:2)

私の黙想:
今朝の聖句はユダヤ人の一般的な祈りの姿勢が描かれている。ということで、今日は主日でもあるので、わたしたちの礼拝の終わりの部分について考えて見た。プロテスタント教会では礼拝の終わりに「祝祷」がなされる。あれが聖公会では見当たらない。聖公会の聖餐式の終わりの部分では主教または司祭が、「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常にみなさんとともにありますように アーメン」と唱え、その後で会衆は起立し、執事または司祭が「ハレルヤ、主とともに行きましょう」と唱え、会衆がそれにこたえるように「ハレルヤ、主の御名によって アーメン」と唱えて終わる。従って、その後で席についてお祈りする余地はないはずで、立ったまま、そのまま聖堂から勇ましい後奏によって出て行く。これが正統な仕方であるが、実際には報告やら紹介などがあって、改宗は座に就くか、跪くことになり、後奏もそれに相応しい静かな祈り心を誘う音楽が演奏される。
主教または司祭が唱える最後の祈りは、それこそ改宗を祝福する祈りで「みなさんとともに」という言葉である。ここでその場に主教が臨席している場合には、主教杖を右手に持ってとなえる。注目すべき点は「みなさんとともに」で、これを唱える司教にせよ、司祭にせよ、「祝祷」ではなく上からの「祝福」ということになる。
聖餐式以外の礼拝(朝の礼拝、夕の礼拝)においては、「終わりに次のようにいう」とルブリック(注意書き)があって、改宗全体を代表して「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、わたしたちとともにありますように。アーメン」(2コリント13:13)となっている。注目すべき点は「わたしたちとともに」にある。
プロテスタント教会における「祝祷」とは一体何なのか。「祝福の祈り」と言うことであるが、その場合祝祷をする人の立場はどうなるのか、改宗の一人なのか、会衆の上に立つものなのか、その違いが、祝祷するものの「掌」の形に現れている。正教師位にある者は掌を改宗にかざす形になるり、一般的には「仰ぎ願わくはキリストと父なる神と聖霊の御恵みがあなたがたの上にあるように」と上から下への目線で「祝祷」することになる。
さて今日の聖句から考えさせられる点は、ユダヤ人社会における一般的な祈りの姿勢で、そこにいる全会衆が共に両手を上に上げて、掌を上に向けるらしい。上には神しかいない。

2018 日々の聖句 6月11日(月)
主は、主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。(詩145:18)

信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。(マタイ21:22)

私の黙想:
今日の聖句のカギは「まことをもって」である。仮に、この言葉がなければどうなるか。無茶苦茶になってしまう。誰でも「主よ」と言いさえすれば主が助けてくれることになる。たとえば、今日の新約聖書の言葉を考えて見れば、誰でも祈れば何でも聞かれるのではなく「信じて」がなければ無茶苦茶になってしまう。
従って重要なことは「まこと」を持って主を呼ぶ姿勢であり、信じて祈るということなしでは、主(神)は便利な万能機械になってしまう。神は断じて便利な万能機械ではない。私たちが神に向かい合うとき「まこと」でなければならない。
誠とは苦しい修業の結果えられるものではなく、むしろすべての邪恋を捨てて、幼子のような純粋の心である。願いさえない。幼い子供が近くに母親がおりさえすれば、安心している。
最近、日本で起こった悲劇に私は身震いしている。幼子にとってその母親が鬼になる。救いようのない悲劇が起こる。

2018 日々の聖句 6月12日(火)
主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。(エレミヤ14:9)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。(ガラテヤ3:26)

私の黙想:
確かに私たちは「クリスチャン」あるいは「キリスト者」と呼ばれている。まさに「我々は御名によって呼ばれています」。人によっては「クリスチャン」と呼ばれることを恥ずかしいことと思っているらしい。それこそ恥ずかしいことだ。キリスト者であることを恥じる理由は何もない。時にはクリスチャンと呼ばれるのには相応しくない生き方をしている場合もある。
先日も私が私の病状を事細かに医者に説明していたら、医者は首をかしげて「そんなはずはない」と一言。そして文屋さんはかなり「神経質ですね」と言われた。それで私は開き直って「神経質なくらいでないと牧師は務まらない」と開き直りましたら、医師もいろいろ困って考えて、「これを牧師さんに処方するのは、気が引けますが」と言いつつ、朝夕に飲む錠剤を出してくれました。それで私はこの薬は何ですかと問うと、気まずそうに「軽ーい精神安定剤」ですよ、とのこと。それを飲み始めてから、確かに効果てきめん、細かい症状はでなくなりました。(気にならなくなりました)

2018 日々の聖句 6月13日(水)
神は羽をもってあなたを覆い、翼の下にかばってくださる。(ps91:4)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。(ロマ8:31)

私の黙想:
私たちが映像で見る親鳥が雛鳥を護る姿はいかにも勇壮であるし、広げた羽は鋭い刀剣に見えるし、開いた口は鋭い槍のように侵しがたい威厳がある。その声はどこから出てくるのか恐ろしい。しかしそれも相手次第で、桁違いに強い相手の前では哀れで見ておれない。親鳥にとっては勝つか負けるかは関係なく、雛鳥を護るのに必死の覚悟である。だが実際には大きな敵には親子もろとも無残な姿になってします。
そのことについての「野生の映像」はさておいて、親鳥が雛鳥を護る勇敢な映像だけを、神が神の民を護るイメージとして強調しているのである。
このイメージで重要な点は、弱い雛鳥にとって親鳥から「護られている」という意識の強さで、どんなに弱い親鳥であったとしても、誰にもまけないという信頼があり、その意識は絶大だということである。そこには、本当に親鳥は敵より強いのか、親が逃げ出すのではないのかという「発想」は全くないということです。信仰とはそういうものである。私たちは実際のことは分からないが、神は悪魔に対して絶対についよいと信じている。神に護られている限り、その護りは絶対である。イエスの十字架でさえ勝利の印となった。

2018 日々の聖句 6月14日(木)

神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。〔セラ あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために。(詩67:2~3)

秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(エフェソ1:9~10)

私の黙想:
この詩は収穫感謝祭の詩とされている。農業においては神に依存する部分が多く、神の恵みを求める。どうしたら神の恵みを得られるか。その結論は神に向かってにこやかにする以外にない。
いろいろ考えて、これは一種の当時の「祭り歌」日本的にいうと「盆おどり」のようなものではないのか。いおりいろ「神学的」に分析しても、深い思想は出て来そうもない。むしろ、皆で、歌って、踊って楽しむ歌であろう。

2018 日々の聖句 6月15日(金)
彼(主の下僕)が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。(彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。)(イザヤ53:5)

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10)

私の黙想:
この場面はあまりにもリアルであり、現実にあったのだろうと思われる。人種間の対立、宗教間の対立、相手を殲滅するところまで行ってしまう。それがホロコーストである。近代においてもナチスドイツによるユダヤ人の殲滅作戦がそれである。日本でもキリスト教徒の迫害の時にほぼ同様の出来事はなされた。一種の見せしめの惨殺である。もっとお同人種、民族の場合は宗教ないし思想の弾圧であり、「回心」あるいは「背教」の意志をハッキリすれば赦されるが、その場合でも秘密を白状させるときの常套手段だとも言える。人間とは残酷な動物である。私など、このような目に当たったら一番先に「転んでしまう」であろう。
今でもどうであろう。安倍総理の簡単な失言を守るために、平気で嘘をつき、黙秘をする。それにな堪えられなくなったら、自殺する。今の日本人はその自殺を平気で見ている。そこに現在の日本人の残酷がある。

2018 日々の聖句 6月16日(土)
(見よ、)わたしの受けた苦痛は平和のためにほかならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった。(あなたは)わたしの罪をすべて(あなたの)後ろに投げ捨ててくださった。(isa38:17)

わたしたちを愛して、(永遠の)慰めと(確かな)希望とを(恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。(2テサロニケ2:16~17)

私の黙想:
「苦痛は平和のため」(新共同訳)、「幸福のための苦しみ」(口語訳)いずれも自虐的である。しかし、いずれも苦痛や苦しみのどこからのものかその出所が明白ではない。その意味では、文語訳が面白い。「われに甚しき艱苦をあたへたまへるは、我に平安をえしめんがためなり」文語訳では「艱苦」は(神から)与えられたもので、それは私の平安のためだという。艱苦が与えられると平安になる。誰が艱苦を与えているのか、その目的ななのためか分かれば、堪えることが出来る。

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