ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/02/12~02/18

2017-02-18 17:22:21 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/02/12~02/18

2017 日々の聖句 2月12日(日)
(今、)あなた(イスラエル)は知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国はあなたのもとに馳せ参じるであろう。(イザヤ55:5)

人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。(ルカ13:29)

私の黙想:
旧約、新約合わせて読むと、要するにイスラエルが招待主になって国際会議が開催されるという予言であろう。私もそうお言うことになるように夢見る。エルサレムにはそれだけの要素はある。もちろん、そのエルサレム会議の主題は本章の1節から3節までに記されている。第1の議題は食糧問題(経済問題)、食料が正当に配られているか。第2は世界平和。当然集まってくる議員はそれぞれの国々においてそれを担当するものであろうし、宗教家であろう。あらゆる宗教家が一同に交いして語り合う。宗教を通しての平和会議であろう。イザヤもそういうことを期待してこの言葉を語っているのであろう。まさか、その肝心のイスラエルが、そしてその主とのエルサレムが世界紛争の火種になり、戦場化するとは、予想もしていなかったであろう。

2017 日々の聖句 2月13日(月)
あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。(詩90:8)

隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。(ルカ8:17)

私の黙想:
神がというよりも、私自身が私の罪を隠しおおせるものではない。人間にはそれほどの知恵は与えられていない。それでも、すぐにばれてしまうような罪を罪と知りつつ犯してしまう。それほど罪とは甘くて美味しいものなのだ。人間には、罪の誘惑に勝てるような能力を与えられていない。昨日のシラ書の言葉、「その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実にそれを行うことができる」(シラ15:15)、その点ではパウロの「人間はみな罪人だ」という思想の方に軍配をあげざるを得ないであろう。問題は、罪を犯した後の行動である。どうせ、最後まで隠し負えないのであるから、できるだけ早く白状して、赦していただくしかないではないか。

2017 日々の聖句 2月14日(火)
あなたのみが主。天とその高き極みを、そのすべての軍勢を、地とその上にあるすべてのものを、海とその中にあるすべてのものを、あなたは創造された。(ネヘミヤ9:6)

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ロマ11:36)

私の黙想:ユダヤ歴
仮庵祭がユダヤ暦7月(ティシュリ)の15日から1週間22日までもたれ、ある意味喜びの祭りの後一日間をおいて、全国民あげて断食し懺悔の祈りがなされる。ある意味、それがユダヤ教の核心的祭りである。今日の聖句はその式文の最初の冒頭部分でヤハウェとはどういう方なのかと言うことが宣言される。それに続いて延々とアブラハムの選び以来の歴史が読まれる。それが毎年繰り返される。自分たちの民族の歴史を振り返るとはこういうことである。その中心部分は18~19節の「彼らが牛の像を鋳て造り、エジプトから救ってくれた神だと称し、背信の大罪を犯したときも、まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった」である。民衆の前で自分たちの歴史の誤りを赤裸々に告白し、にもかかわらず「荒れ野に見捨てられなかった」。見捨てられて当然であるが見捨てられなかった。6節の堂々たる神賛美と18~19節の懺悔との対比が重要である。
実は8章の仮庵祭はその荒れ野での経験を追体験する祭りである。だから、「荒れ野で見捨てられなかった」という言葉には迫力がある。

2017 日々の聖句 2月15日(水)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。(銀を持たない者も来るがよい。)(イザヤ55:1)

大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。(ルカ6:17~18)

私の黙想:
あの地方では飲み水にも銀を払わなければならなかったのだ。「銀を持たない者も来るがよい」という言葉を前の文章の方につないだ。口語訳もフランシスコ会訳も、そこが曖昧なために、その後の文章との整合性が合わない。(日本語のローズンゲンは、この文章を取り上げていない)。
金のない者にも水を飲ますというのがここでの福音である。つまり、福音は無条件。そこにいろいろ条件を付けるのが人間であり、宗教組織。

2017 日々の聖句 2月16日(木)
主はわたしたちを、どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる。(詩103:14)

わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ14:19)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳では「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである」。いずれ人間を造ったのはヤハウェであるので、結局同じことを意味しているのであるが、訳語としてはかなり違う。口語訳ではヤハウェは人間を少し客観的に見ている。それに対して新共同訳では正に人間を神が思うがままに造ったということが強調されている。だから、後半の言葉に暖かさがあるか(口語訳)、冷たく突き放して感じる(新共同訳)。そりゃ人間は元をただせば「塵」に過ぎない。この差はフランシスコ会訳は新共同訳、新改訳は口語訳と対比される。文語訳は口語訳と同じ、岩波訳はどちらかというと、口語訳側。
問題は人間は神の失敗作なのか。傑作なのか。神は作り上げた人間を見て、「ああ、やっぱり塵は塵だな」と思っておられるのか。それとも、「あの塵から、こんなに立派な作品ができた」と喜んでおられるのか。私はやはり、人間は神の傑作であると思う。13節の言葉は「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」(口語訳)。

2017 日々の聖句 2月17日(金)
ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と。(イザヤ40:27)

自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。(ヘブル10:35)

私の黙想:
今日の聖句はよく分からない。私の人生は「主に隠されている」。これは「主が」隠しているのか。「主の中に」隠されているのか。最後の言葉を読むと、「主から忘れられている」嘆きに読める。主ご自身が私の人生をどこかに隠して、その隠し場所を忘れてしまったように思える。口語訳も同じようである。その点、フランシスコ会訳は面白い。「わたしの道は主には隠されており、わたしの訴えはわたしの神によって見過ごされている」。誰か役人がわたしの人生記録(予定)、あるいは訴えを主に対して隠蔽している」。どこかの役所を思い起こす。新改訳はフランシスコ会訳と似ている。この点岩波訳は明瞭である。「わが道はヤハウェから隠され、わが神からわが訴えは見過ごされた」。誰かが私の人生を神に対して隠しているのである。だから、私がどれだけ訴えても、取り上げられない。
ここでは、この訴えは間違っているということを述べているのである。
神が見落とすということがあるだろうか。絶対にない。誰かがあなたの人生を神に見えないようにしているはずがない。ここのテキストは、今日の聖句を全面的に否定している。これがこの聖句を理解する鍵である。神には見落とすということがなく、疲れていい加減になるということもない。神が動かないということは、それなりに神の理由がある。見て、聞いて、ただ黙っているだけだ。動かなければならないと思ったら、神は必ず動く。見落としているわけでもなく見過ごしにしているわけでもない。まさに「(神の)沈黙」のテーマである。ローズンゲンって不思議な聖句である。まさか、編集者が、日本で『沈黙』が問題になっていることを、予知して選んでいるわけではないのに、それがぴたっとくる。不思議だ。

2017 日々の聖句 2月18日(土)
わたしに尋ねようとしない者にも(わたしは、)尋ね出される者となり、わたしを求めようとしない者にも見いだされる者となった。(わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいると言った。)(イザヤ65:1)

神はあなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったいました。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。(1ペトロ2:9~10)

私の黙想:
口語訳には、そのことを「喜んだ」とあるが、新共同訳にはない。「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ」。本文的にはいろいろ問題があり麻生だが、要するに、ヤハウェを信じようとしないイスラエル(神の民)に対する神の嫌みらしい。お前たちが信じなくても、私を信じる者は他に沢山いるよ」。ローズンゲンでは省略されている後半の部分、「わたしの名を呼ばない民にもわたしはここにいる、ここにいると言った」。口語訳では「わたしはここにいる、わたしはここにいる」を直接話法で表現している。これはなかなか愉快なテキストである。これは5節の「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」(口語訳)と対応しているのであろう。
第3イザヤという預言者はなかなか芝居っけがある。

最新の画像もっと見る