ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 01/06~01/12

2013-01-14 06:38:52 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 01/06~01/12

日々の聖句2013 01月06日(日)
わたしが、主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて火のように燃え上がります。(エレ20:9)
福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。(1コリ9:16)
私の黙想:
預言者エレミアにとって主の言葉を語るということは反権力、反民衆的な行動となる。人々は「問題なし」「安全だ」という言葉を求めている。だからエレミアに「黙れ」という。エレミアも黙っていたいと思う。しかしそれは出来ない。国家権力に屈し、民衆の求めに応じるか。エレミヤはいう。「押さえつけておこうとしてわたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。エレミアは主に対して敗北する。

日々の聖句2013 01月07日(月)
ヨシュアは地にひれ伏して拝し、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言った。(ヨシュ5:14)
イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と言われた。(ルカ8:21)
私の黙想:
イスラエルの民が40年間の荒野で試練の後、初めて「約束の地」に足を踏み入れた頃のことがドラマティックに描かれている。神による「民族の刷新」というこういうことであろう。今日の聖句は新しい指導者としてのヨシュア個人に対する神の姿勢が述べられている。ここで最初に命じられていることは「履き物を脱げ」である。荒野で靴を脱ぐということは自分自身の弱さを知ること、自分が立っている場所が荒野であるということを肌で感じること、その上で、その荒野が「聖地」であるということを自覚すること。

日々の聖句2013 01月08日(火)
主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください。(エレ14:9)
キリストの言葉:わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタ28:20)
私の黙想:
私たちが「キリスト者」と呼ばれているように、イスラエルの民は「ヤハウェの民」と呼ばれていたらしい。それを根拠にエレミヤは「私たちが変になれば、あなたの名前が馬鹿にされますよ」とヤハウェに迫る。ヤハウェはそれは「私の責任ではなく、あなたたちが駄目だからだ」と突き放す。ヤハウェとエレミヤとの迫力のある駆け引き。ここでのエレミヤは「涙の預言者」というよりも「モーセに匹敵する預言者」である。教会の現状を嘆く聖職は結構いる。しかしそのことについて神に迫る聖職がどれだけいるのだろうか。

日々の聖句2013 01月09日(水)
わたしは怒ってあなたを打ったが、今、あなたを憐れむことを喜ぶ。(Isa60:10)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(Heb4:16)
私の黙想:
ここで使われている「憐れむ」という言葉は、「可愛く思う」であろう。悪い子供を「殴って」叱る親、『ご免なさい』と言いながら親にしがみつく子供」の情景。これが本当の親子の姿。子供を殴ることも叱ることも出来ない親、叱られたらますます反抗する子供、ここに現代の家庭の崩壊の芽がある。

日々の聖句2013 01月10日(木) 
わたしたちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。(1代下19:7)
徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。(ルカ15:1-2)
私の黙想:
国王から各地方の裁判官への命令の言葉。この文脈で興味深い点は、裁判の本質を「人のためではなく、主のために裁く」とする点である。裁判官は国王の代理人であると同時に神の代理人でもある。そこには
「不正も偏見も収賄」も入り込む余地はない。日本における裁判は「人間が作った法律により、人間の前で宣誓し、人間のために」行われている。不正、偏見、収賄まみれの裁判だ。

日々の聖句2013 01月11日(金)
あなたの死者が命を得ますように。(イザ26:19)
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(1テサ4:14)
私の黙想:
イスラエルの民は苦難に襲われたとき神に祈った。「困ったときの神頼み」である。この祈りは空を打つようなものに過ぎなかった。「産みの苦しみ」の結果も「風」を産んだだけであった。イスラエルは他の民と同様に滅びた。しかし彼らは「あなたの死者」である。死者は死者でも「あなたの死者」である。イ民族としてのスラエルは滅びても、ヤハウェとイスラエルとの関係は持続する。これが「復活の信仰」に繋がる。

日々の聖句2013 01月12日(土)
神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。(詩49:16)
パウロの手紙:わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。(ロマ7:24-25)
私の黙想:
何と惨めな人間だろう。ここまでリアルに詳細に人間の惨めさを言語化する詩人とはどういう人間なのだろう。惨めな人生で治まらず、人間の存在そのものがどうにもならない、出口のない穴に落とされている。自力では絶対に這い出ることは出来ない。望みは神のみ。

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