ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 1/9

2011-01-17 08:53:23 | ローズンゲン
1月9日(日)
主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。(詩5:4)
百人隊長はイエスに答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)
私の黙想
「朝ごとに」という言葉が2回も使われている。朝が重要。朝その日の勝負が決まる。新共同訳の「訴え出て」を祈祷書訳では「(いけにえを)整えて」と訳している。原文には「いけにえ」という言葉はない。この「整えて」は身だしなみかあるいは自分自身を意味するのであろう。

1月10日(月)
地上のすべての民が、主こそ神であって、ほかに神のないことを知るに至るように。(列王上8:60) 天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずきます。(フィリピ2:10)
私の黙想
今日の聖句には旧約も新約も「こうして」という接続詞が文頭にある。この句は結果よりそこに至るプロセスが重要。

1月11日(火)
この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは、主なるわたし。初めであり、後の代と共にいるもの。(イザヤ41:4)
神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。(使徒言行録17:26)
私の黙想
神は究極の「仕切屋」。全てを計画し、実行し、仕上げる。そこには人間が介入する余地はない。神には試行錯誤はない。旧約聖書を読むとそうでもなさそう?

1月12日(水)
わたしは信じる、「激しい苦しみに襲われている」と言うときも。(詩116:10)
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(ロマ8:35)
私の黙想
「わたしは信じる」という言葉は断定的で強い。信じられないような状況の中であえて「信じる」と言い切る。信仰は意地である。「意地っ張り」だけが最後まで信仰を維持する。

1月13日(木)
御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。(詩21:14)
イエスは女の上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(ルカ13:13)
私の黙想
神と王(民族の指導者)との良好な関係を見て民衆は喜び、神を賛美する。これが理想的状況。これとまったく逆な状況で国民は不安になり、嘆く。

1月14日(金)
アモスの言葉:わたしは言った。「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう、彼は小さいものです。」(アモス7:2)
天使はヨセフに言った。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)
私の黙想
今日の聖句はこれに続く言葉が重要。「主はこれを思い直され、『このことは起こらない』と言われた」。神も思い直す。預言者の祈りに応えて。旧約聖書の神のこういうところが魅力的である。人情ある神。人情のわかる神。それなら人間も「神情」を知りたくなる。

1月15日(土)
主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。(詩145:18)
希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(ロマ12:12)
私の黙想
祈祷書訳では「主はおられる、助けを求める人の近くに、心から祈る人のかたわらに」と訳されている。祈祷書の訳はなかなかいい。


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