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2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」・主人公の北条義時は織田信長より凄い。

2020年01月11日 | 鎌倉殿の13人
北条義時は、伊豆の在地領主(土豪)の次男です。1180年に17歳で、源頼朝の挙兵に父や兄と共に参加します。その時は江間小四郎という名でした。そののち源頼朝の小姓の頭になります。この小姓のことを「家子」と言います。姉は北条政子で、頼朝の正妻です。従って、三代将軍実朝は「おい」です。

その後平氏討伐にも参加し、頼朝の側近として鎌倉幕府の安定化に尽くします。やがて頼朝が死に、二代将軍頼家の政治権がはく奪されます。政治は有力御家人13人の合議制となりますが、義時は最年少の36歳でメンバーに加わります。

その後、北条氏・北条義時は他の有力御家人を排除していきます。梶原景時、比企能員、畠山重忠、平賀朝雅などが排除されます。そして1205年には、義時は父の北条時政も追放します。幕府の政所長官となり、やがて「執権」と呼ばれるようになります。1213年には侍所別当であった最有力者の和田義盛を和田合戦で滅ぼし、ここに北条執権体制が確立します。

この過程において北条政子、三浦義村、安達氏、大江広元などとは協力的関係を保っています。

やがて実朝が暗殺され、1221年、後鳥羽上皇によって「承久の乱」が起きます。この戦いは「北条義時追討」を名目としたものでした。その戦いに鎌倉幕府、北条義時は勝利。後鳥羽上皇は「武力の放棄」を約束し、その後明治維新まで、皇室は武力を持ちません。それでも後鳥羽上皇は隠岐に遠流となりました。

1224年、62歳で死去します。義時の直系は「得宗」と呼ばれます。得宗は執権となりますが、執権を辞めても得宗です。鎌倉幕府における権力は執権より得宗の方が上、でした。執権は16人いますが、そのうち得宗は9人です。

何が織田信長より「凄い」かというと。

・天皇王家に「武力の放棄」を約束させたこと。「武力を持つ王としての天皇、上皇」はこの後、明治維新まで途絶えます。実質上、武士の世を作ったのは北条義時です。(ゴダイゴ天皇の武力は自前の武力ではないと考えています)

・実は義時は上皇に弓をひくことを怖がっていたという史料もあり、「義時も尊王の人だ」と皇国史観みたいなことを言う学者もいます。「怖かったけどやった」わけです。「やった」という行動が大切なのです。怖かったからやめた、なら普通の武将でしょう。でも上皇を三人も遠流してるのです。その「事実」が大切です。

・権力者であった父、北条時政を追放しています。信長は父にはそこそこ従順でした。

・鎌倉幕府の仕組みを、作り上げていきます。信長は政治の仕組みを作る前に死んでいます。

・信長には一回も朝廷から「討伐の命令」(勅命や宣旨)は出ていませんが、北条義時には明確に「追討の宣旨」が出ています。完全に朝敵となったのに、朝廷に勝利しています。朝廷はもちろんこの宣旨をすぐに「撤回」しています。

・同僚・他の有力御家人を次々殺し、その家を滅ぼし、北条執権制を確立します。


まあ「信長より凄いかどうか」は実はどうでもいいのです。とにかく、凄い「悪」(アク)であるわけです。「悪」とは鎌倉時代の用法としては「凄いやつ」です。

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