■田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」
ライブドアニュース 2016年8月8日 プレジデントオンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/11861690/
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自身の回顧録『国家なる幻影』(2011)で田中角栄を痛烈に批判した石原慎太郎。
しかし2016年、彼は角栄を『天才』と評価した……。
田原総一朗と石原慎太郎。2人の論客が振り返る、田中角栄とロッキード事件、そして日本の戦後政治史とは?
対談連載『田原総一朗の次代への遺言』、今回は特別編を掲載します。
・改めて、田中角栄を評価する
【田原総一朗】
石原さんは、立花隆が「田中角栄研究――その金脈と人脈」を書く前に、「文藝春秋」に厳しい田中批判の論文をお書きになった。
僕も読みましたが、非常に厳しい内容でした。田中批判の先鞭をつけた石原さんが、ここへきて田中角栄を評価する文章をお書きになった。
これはどういうことですか。
【石原慎太郎】
日本の文壇は狭量でね。
僕が政治家として売れてくると、逆に作品には偏見を持たれました。
たとえば『わが人生の時の時』は野間文芸賞の最有力候補になりましたが、選考委員の吉行淳之介が「こんなもの文学じゃない」って言い出した。
それから、いくつかの短編を集めた『遭難者』は金丸信が起訴されて自民党が指弾されたときだったから、一行も書評が出なかった。
自分で選んだ道だからしょうがないけど、自分の文学に申し訳なかったね。
ただ、政治家を辞めたら、こんどは早稲田大学の社会学の森元孝さんが『(石原慎太郎の社会現象学)――亀裂の弁証法』という、いい評伝を書いてくれました。
これで俺の文学が少し救われた気がしたね。
そのお礼に森さんと会食したのです。
その席で彼にこう言われてね。
「石原さんの『国家なる幻影』には田中角栄さんが非常に詳しく書かれている。
あなた、実は角さんが好きなんじゃないですか」。「たしかにあれほど中世期的でバルザック的な人間はいない。すごく興味があります」と答えたら、「私はあなたが一人称で書いた作品を愛読している。いっそ角さんを一人称で書いたらどうだろう」と言ってくれた。
それで『天才』を書き出したわけです。
・石原慎太郎が田中角栄を批判した理由
【田原】
でも、もともと石原さんは田中角栄の金権政治を痛烈に批判していましたね。
【石原】
角さんが総理になって最初に国政選挙があったときですよ。
福田系の候補者がグループ(後の青嵐会)幹部の集まりにきて「みなさんに共感しているので当選したらグループに入ります」と挨拶をしていきました。
その男が「いまから公認料をもらいにいく」というので、誰かが「総裁室は4階だぞ」と教えてやると、「いや、砂防会館の田中事務所でもらいます」という。
これにみんな怒ったんです。
党の公認料を私的な事務所で渡すとは何事かと。
彼は砂防会館から、3000万円入った袋を持って興奮して帰ってきた。
それに加えて2000万円もらったそうな。
「いやあ、田中さんは偉大です」なんて言っちゃってね。
結局、そいつは本籍福田派だけど現住所田中派になった。
それをきっかけに僕は田中金銭批判を始めたのです。
【田原】
そもそも青嵐会ができたのは、田中角栄が日中国交正常化をやったときでした。
【石原】
日中国交正常化に反対したわけじゃない。反対だったのは航空実務協定。あれはめちゃくちゃでした。
【田原】
どういうことですか。
【石原】
交渉の中で、北京から外務省に密電が入ったんです。
当時の大平(正芳)外務大臣の記者会見で、北京が手なづけた新聞記者に「台湾から飛んでくる飛行機の尾翼には青天白日旗(中華民国・台湾の旗)がついているが、あれを国旗として認めるのか」と質問させるから、必ず否定しろという内容です。
当時の外務省の役人は、いまと違って腰抜けじゃなかった。
「こんな実務交渉がありますか」と切歯扼腕して、僕らに密電を見せてくれた。
それで実務協定はいかんと思った。
大平さんは僕の先輩だけど、それから盾突くようになっちゃった。
あとで大平さんの秘書から「なぜ盾突いたのか。大平先生は渡辺美智雄よりあなたに期待をしていて、俺の金脈はすべて石原君にくれてやると言ってたのに」と教えられてね。
それを聞いて、惜しいことしたなと思ったけど(笑)。
・田中角栄のどこがスゴいのか
【田原】
石原さんは反田中だったのに、一方で田中さんに魅力を感じていた。
どんなところに惚れたんですか。
【石原】
包容力というかな。
無邪気といえば無邪気なんだな。
あるときスリーハンドレッドクラブ(茅ヶ崎市)にあるローンのコートで仲間とテニスをしたんです。
みんなは昼飯を食いに玄関に入っていったけど、僕は勝手を知っているから近道してテラスから入った。
すると、青嵐会の参議院の代表をしていた玉置和郎(元総務庁長官)が座っていて、こっちを見てバツの悪そうな顔をしている。
玉置の表情を見て怪訝に思ったんだろうな。
向かいに座っていた人がこちらに振り向いたら、闇将軍の角さんだった。
まずいと思ったよ。
青嵐会は角さんに弓を引きましたからね。
ところが角さんは、「おい、石原君、久しぶりだ。ちょっと来い」と手招きする。
恐る恐る近づいて、「いろいろご迷惑をおかけました。申し訳ありませんでした」と頭を下げたら、角さんが遠くにあった椅子を自分で運んできて、「お互い政治家だろう。気にするな。いいから座れ」と言って、ウエイターにビールまで注文してくれた。
僕もバツが悪いから、「先生、照る日も曇る日もありますから、またがんばって再起なさってください」と言ったんだけど、角さんは気にした様子もなくてね。
「君、今日テニスか。俺は軽井沢に3つ別荘を持ってる。テニスコートが2つあるんだが、子供や孫に占領されてできねえんだ」と言って笑うんです。
しまいには玉置に向かって「テニスはいいんだぞ。短い時間で汗かくから」とテニスの講釈まで始めた。
それを見て、この人はなんて人だろうと思ったな。
【田原】
なんて人だろうっていうのは、どういう意味ですか。
【石原】
何というのかな、端倪すべからざるというか、寛容というか。
僕は、この人は不思議な人だと思ってしびれたね。
【田原】
田中角栄は石原さんのことをどう思っていたんだろう。
【石原】
買ってくれてたんじゃないかな。
プロスキーヤーの三浦雄一郎っているでしょう。
僕はあいつがヒマラヤのサウスコル大滑降のときに総隊長を務めたんだけど、その縁で参院選の自民の全国候補にしたんです。
ただ、あいつは肉体派。
候補者として不規則な生活をしているうちにノイローゼになってきた。
いつだったか長野で講演会をやるというので様子を見にいったら、建物前の石畳にツェルト(小型テント)を張って三浦がビバーク(野営)していて、ニンジンをかじりながら出てきた。
「何してるんだ」と聞いたら、「僕、こうでもしていないともたないんです」と。
そのうちに僕は当時幹事長だった角さんから呼び出されてね。
「おい、石原君、これは何だ」と差し出されたのが、三浦から角さんへの手紙でした。
そこには僕への悪口が綿々と書いてある。
「石原はスポーツマンと称しているけどインチキだ」とかね。
長い手紙で、ぜんぶに割り印が打ってありました。
角さんはそれを見せて、「こりゃ疲れてるぞ。君がついているかぎり勝つに決まっているんだから、休ませろ」という。
おまえがついていれば勝てるだなんて、この人は俺を評価してくれているんだとそのとき思いました。
・田中角栄の功績は「日本列島を一つの都市圏」にしたこと
【田原】
僕は、田中角栄は人間的なキャラクターだけでなく構想力も一流だったと思う。
田中角栄は都市政策大綱というものをつくった。
要するに日本列島を一つの大きな都市圏にしようという構想です。
【石原】
角さんのおかげで日本は今そうなったじゃないですか。
【田原】
そう。北海道から九州まで、どこからどこへ行くのにも1日で往復できるようになった。
【石原】
日本中に新幹線と高速道路をめぐらせて、各エリアに地方空港をつくった。
それはやはりすごいことですよ。
われわれは角さんのつくった現実の中にいる。
ヘーゲルは「歴史は他の何にも増しての現実だ」と言ったけど、私たちは現代という歴史の中で生きているのだから、角さんをとても否定できませんよ。
【田原】
いまの日本をつくったのは、田中角栄の構想力ですか。
【石原】
文明史「勘」だと思う。
あの人の、先を見通す力はものすごかった。
【田原】
田中角栄は法律を議員立法で33もつくった。
これもすごいね。
【石原】
すごいですよ。
僕は大田区の選出だから、中小零細企業を抑圧する下請け契約を監視する経済Gメンをつくったらどうかという法律を議員提案したことがある。
自民党の中では「お前は社会党より左だ」と言われたし、労働組合に持っていったら総評(日本労働組合総評議会)も同盟(日本労働組合総同盟)も両方とも反対した。
結局みんな企業側だから、けんもほろろに言われた。
議員提案はとても難しいんだ。
【田原】
なるほど、石原さんは総評や同盟より左だったんだ(笑)。
【石原】
そう言われたね。
それから角さんとの絡みでいえば、選挙権を18歳に下げようというキャンペーンもダメだったな。
前にキャンペーンをやったことがあって、角さんが幹事長で僕が参議院にいたころ、もう一回、やろうとしたんです。
それで「自民党の講堂を貸してください」と頼んだら、「ダメだ」と一笑に付されました。
【田原】
なんでダメだったんですか。
【石原】角さんには、「選挙権なんて20歳でも早過ぎるんだよ。あんなの未成熟じゃないか」と言われましたね。
いま振り返ると、18歳は反権力、反権威で、自民党のためにならないと思ったのかもしれないけど。
・ロッキード事件の最高裁判決はおかしい
【田原】
石原さんはロッキード事件をどう見ますか。
【石原】
僕は参議員のころから国会議員でただ一人、外人記者クラブのメンバーでした。
あのころ古いアメリカ人の記者たちといろんな話をしたけど、連中は異口同音に「あの裁判はおかしい。なぜコーチャン、クラッターに対する反対尋問を許さないのか。免責証言なんてアメリカでも問題になっている」と言っていました。
あれはやっぱり日本の裁判にとって恥辱。
最高裁は謝罪すべきです。
【田原】
僕はずいぶん詳しく調べたけど、少なくとも検察の言っている5億円の場所、日時、全部、間違いだね。
【石原】
あれは検事の書いた小説。
角さんの秘書の榎本(敏夫)がサインしちゃったけど、わけのわからない話だった。
それよりロッキード社に関しては、他にもP3C対潜哨戒機(対潜水艦用の航空機)の導入をめぐる疑惑があったでしょう。
ところがP3Cの問題は、児玉誉士夫がつぶしてしまった。
【田原】
僕はテレビ朝日の『モーニングショー』に秘書の榎本を呼んで証言させて、2日間、ロッキード事件をやったの。
2日目の終わりに「明日はP3Cをやる」と宣言したら、僕とプロデューサーは三浦甲子二(元テレビ朝日専務)に呼ばれて、「絶対P3Cは許さない」と言われた。
「それでもやる」って言ったら、「それなら番組をつぶす」とまで言われたよ(笑)。
話を戻すと、ロッキードの裁判はおかしかった。
石原さんは訴えますか。
【石原】
最高裁が間違いを認めることで角さんは浮かばれますよ。
俺の本が売れたぐらいじゃどうにもならないけど、あの人の贖罪はしなくちゃいけない。
だからあなたも協力してください。
【田原】
そうね。ぜひ。
(中略)
・なぜいま、田中角栄のような政治家は出てこないのか~田原総一朗
田中角栄のすごいところは2つあります。
1つは構想力。
1967年に社会党と共産党に支持された美濃部亮吉が東京都知事になりました。
それと前後して、神奈川、大阪、京都、名古屋が革新になった。
それに危機感を持った田中角栄は、「中央公論」に「自民党の反省」という論文を書きました。
解決策として提示したのが、「日本列島改造論」の下敷きになった都市政策大綱です。
日本は太平洋側だけ発展して、日本海側や中日本は取り残されていました。
そこで田中角栄は日本を1つの都市にしようと構想しました。
具体的には全国に高速道路と新幹線を張り巡らし、各都道府県に空港をつくり、日本の4つの島を橋とトンネルで結び、日帰りでどこでもいけるようにする。
そうすれば企業も分散するというわけです。
もう1つは、人間としてのキャラクターです。
石原さんも言っていましたが、田中角栄は誰でも受け入れるスケールの大きさがありました。
たとえそれが敵対する相手でもです。
昔の自民党は、そうした懐の深さがありました。
当時、自民党は田中派と大平派がハト派、福田派と中曽根派がタカ派で、どちらかが主流派になれば反対の派閥が非主流派になってバランスがとれていました。
党内で活発な議論をしていたから、当時、野党に関心を持っている人はいなかったですよ。
ここにきて角栄ブームが起きているのは、いまの政治に構想力が足りないせいでしょう。
アベノミクスは、第1の矢の金融政策と、第2の矢の財政政策が奏功して株価が上がりました。
しかし、第3の矢である成長戦略のための構造改革は進んでいない。
構造改革は改革したあとの世界をどうするのかという構想が必要なのに、そこを描き切れていません。
もしいま田中角栄がいたら、何かしら新しい構想を打ち出して国民に見せていたでしょう。
どうしていま田中角栄のような政治家が出てこないのか。
それは政治家が守りに入ったからでしょう。
田中角栄は何もない焼け野原から出発しましたが、いまの政治家は守るものがあって、チャレンジしないのです。
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田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」
ライブドアニュース 2016年8月8日 プレジデントオンライン
https://news.livedoor.com/article/detail/11861690/
■石原慎太郎がいま明かす「私が田中角栄から学んだこと」~人を見て、先を見通す天才だった~
週刊現代 2016.05.06
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48554
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今太閤、闇将軍。閉塞する現代日本で田中角栄が空前のブームだ。
かつては「政敵」だった石原慎太郎氏も、実は角さんが好きだった。
近著『天才』で田中角栄を活き活きと描いた石原氏が語る。
・なぜ役人をうまく使えたか
田中角栄は29歳で初当選したとき、地元でこう呼びかけました。
「裏日本といわれている雪国の新潟を表日本にするには三国峠をダイナマイトで吹っ飛ばしてやればいい。そうすれば新潟に雪は降らなくなって、その土を日本海にもっていけば佐渡島を陸続きにできる。そうなったら、逆に東京から人が新潟に出稼ぎに来るようになる」と。
むちゃくちゃだけど、これは、殺し文句だと思うね。
こういう郷土愛の延長に国への愛着があって、角さんは日本をより機能的、文明的に改良しようとした。
役人をうまく使ってね。
役人を使うのがうまかったというのは、言い換えれば役人を馬鹿にしていたということですよ。
だって、彼らには発想力というものがない。
僕も長いあいだ都知事をやりましたけど、知事というのは一種の「独裁者」的存在でね。
これは僕じゃなくて橋下(徹)君が言った言葉だけども、ある意味でそうだと思う。
発想力と権限をもった政治家が指揮しないと、役人は動かない。
国政も同じことですよ。
そういう意味では角さんは官僚出身の政治家を馬鹿にしていたと思う。
福田赳夫もそう。
一般には「角福戦争」と呼ばれて、角さんと福田さんは総理の座を争ったとされているけど、政治家としては角さんのほうが数段上。
戦う前からすでに角さんが総理になる方向で勝負はついていたと思いますよ。
少なくとも角さんはそう確信していたはずだな。
角さんのすごいところは、政治力というよりも、人間の能力ですよ。
予見性というのかな、先を見通せるだけの文明史「勘」をもっていた。
いまの政治家は発想力がないし、教養もない。
歴史も知らないでしょ。
まして文明史「勘」をもった政治家なんていませんよ。
彼はね、河井継之助に似ているんですよ。
司馬遼太郎さんの『峠』という作品に、越後長岡藩の家臣だった河井継之助が若い頃、上越国境の三国峠を雪崩に巻き込まれながら死ぬ思いで越えて江戸に出てくる話がある。
ところが江戸に来てみると、冬空はカラリと晴れてカラっ風が吹いていて、越後と江戸の風土の違いを痛感する。
と同時に中央に対する反感が生まれ、戊辰戦争で明治新政府に楯ついて最後は自滅してしまうわけだけど、角さんにも継之助と重なるところがある。
角さんの場合、雪の峠道を越えてきたわけじゃないかもしれないが、東京に対する憧れと反感というか、鬱屈した感情があったんでしょうね。
それは郷土愛の裏返しといってもいい。
あれだけ骨身を削って故郷のために尽くせば、そりゃ新潟の人たちは角さんのことを絶対に忘れませんよ。
いま上越新幹線や関越道を利用している人たちがみんな、今日こんなに便利になったのは田中角栄のおかげだと思っているわけではないでしょう。
けれど、新潟の人たちにとって、田中角栄はいまも記憶から拭いがたい存在であることに変わりはない。
・人を見る天才だった
たしかに私は、田中角栄の金権主義を最初に批判し、真っ向から弓を引いた人間でした。
いまさらこんなものを書いて世に出すことで「政治的な背信」と言われるかもしれませんが、政治を離れたいまこそ、政治に関わった者としての責任でこれを記しました。
歴史というものの重みを知ってもらいたいと思ったし、ヘーゲルが言うように、歴史とは人間にとって何よりも大事な現実ですからね。
私自身は商売に携わったことはないし、人からカネをもらったこともない。
選挙も自分のカネでやりましたけども、一方で自民党の戦後の歴史というのは、要するに金権主義なんですよ。
そういう自民党の中でのしあがっていくには、金権という方法論しかなかったんでね。
だから金権そのものは角さんのというよりは、自民党の体質だったわけです。
ただ、あの人が商売の天才だったことは間違いないね。
戦争中に25歳で田中土建工業を設立して、短期間で業界50社以内の売り上げにしている。
すごい話ですよ。
たんなるカネ儲けの才能だけじゃなくて、人を見る目、人間観も鋭い。
僕が角さんはすごいなと思うのは、ニクソン元米大統領やキッシンジャー元米国務長官がベタ褒めした周恩来元首相のことを彼はまったく評価していないことでね。
周恩来は毛沢東の足元にじゃれている「チンコロ」だと。
そんなことを言ったのは田中角栄ただ一人ですよ。
周恩来は役人として優れていただけで、毛沢東の下で生きながらえた。
何度も失脚の危機を乗り越え、「不倒翁」と呼ばれたのは、彼が小物だったからだと角さんは見抜いた。
結局、役人を馬鹿にしていたということです。
そんな田中角栄にてこずったのが米国でした。
米国に頼らない角さんの資源外交が彼らの逆鱗に触れて、それでロッキード事件によって彼を葬ったわけです。
・ロッキードは気の毒だった
ロッキード事件当時、私は国会議員のなかで、一人だけ外国人記者クラブのメンバーでね。
古参の米国人記者がロッキード裁判を傍聴して驚いていました。
ロッキード社副会長が日本で起訴されないことを条件に証言し、それが裁判の証拠として採用された。
しかも、当の副会長に対して反対尋問さえ許されない、という日本の司法のありように首をひねっていたのを覚えています。
私もあのとき米国の策略に騙された一人だったけれども、いまにして思えば、あのロッキード事件は角さんが気の毒だった。
角さんは航空機トライスターの購入をめぐって賄賂を受け取ったとして逮捕されましたが、ロッキード社に関しては他にもP3C対潜哨戒機の導入をめぐる、もっと大きな疑惑があった。
こちらに関与している政治家はもっとたくさんいたんですよ。
ところが、これは完全に黙殺されてしまった。
だから、あのロッキード裁判はいろんな意味でめちゃくちゃです。
今回の執筆にあたって、様々な文献を参考にしましたが、『文藝春秋』('11年11月号)に、角さんが「越山会の女王」と呼ばれた秘書・佐藤昭さん(後に昭子と改名)に宛てたラブレターが掲載されていました。
これを読んで、気の毒なことをしたなぁと思った。
私が田中金権批判の引き金を引きましたが、それに続いて、当時、立花隆氏の「田中角栄研究—その金脈と人脈」と、児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」という2本の論文が発表された。
田中金権批判が盛り上がる中、角さんと佐藤昭さんの一人娘、あつ子さんがリストカットをして、自殺未遂をしたんです。
私は彼女のことを、昭さんの連れ子だと思っていたんですが、実際は角さんの実子だったんだね。
あの恋文を読んで後ろめたい思いをしましたね。
一方で、田中真紀子さんにしてみたら、自分の母親が生きているのに、それ以外にお妾さんが二人いて、それぞれに子供がいたら、女性としては許せないよね。
角さんは真紀子さんから責められて辛かったと思います。
角さんには5歳で亡くなった長男がいましたが、彼が生きていたら、随分違っただろうと思います。
息子から見れば、男として共感はできないまでも、まあ許してはくれたんじゃないかな。
父親を真紀子さんほどには咎めなかったと思います。
結局、ロッキード事件が長く尾を引き、晩年、田中派に創政会ができて裏切られる形になってしまいました。
本人はずっと復権するつもりでいただろうけど、ロッキード裁判が長引いたこともあって、ああいう結果になってしまったな。
角さんとの思い出のなかで印象的だったことがあります。
'75年の東京都知事選挙に僕が出馬(美濃部亮吉に敗北)し、再び国政に戻ってからまもなく、ゴルフクラブで角さんと遭遇したときのことです。
角さんのほうから、いかにも懐かしげに声がかかった。
「おお石原君、久しぶりだな、ちょっとここへ来て座れよ!」
そう言って手招きして立ち上がり、自分から立って窓際の椅子を持ち運び、自分の横に据えてくれたんです。
あのときは強烈だったね。
角さんからすれば、僕なんか、「俺に弓引いたけしからん奴だ」という評価だったでしょう。
そんな人間に対しても、あのとき「ちょっとこっちへ来いよ」と言った。
ある意味、こいつはよく俺に手向かったなと思われたかもしれないね。
まあ、しかし、彼ほど先見性に富んだ政治家はいなかったというのが正直な思いでね。
彼のような天才がまだ生きていて、政治家として復権していたらと思うことはよくありますよ。
都知事時代、自分がやろうとしてできなかったことはたくさんありますが、もし角さんが元気で相談していたら実現できたかもしれないと思う。
・いつか、角さんの墓前で
いまの政治について言えば、世界情勢は緊張していて、日本は身動きのとれない難しい状況に置かれている。
そうした中で安倍(晋三)君は安倍君なりによくやっていると思いますよ。
ただ、角さんだったら、もう少し奸智に長けた、いろんな手を打っただろうね。
はったりをかまして、米国や中国を恫喝してみせたりもしたんじゃないか。
どっちにしても、これから日本は大変ですよ。
ヨーロッパの成熟国家はもう駄目になるだろうし、日本は中国との関係をどうするか。
それに、いつまた大震災が起きるかわからない。
僕はもうすぐ死ぬからいいけども、子供や孫たちは大変だ。
僕は人気がないから、長生きできました(笑)。
人気者はみんな早死にするんだ。
いい人でいることを強いられるからかな。
裕次郎もそうだし、美空ひばりもそうだし、勝新(勝新太郎)だって老人という年齢じゃなかった。
市川雷蔵さんなんて、37歳で死んだんだから。
これはきっと神様の摂理なんだな。
だから、おれは長生き。
角さんの娘の真紀子さんがうまいことを言ったねえ。
「石原慎太郎は暴走老人だ」って。
言い得て妙で、自分でも気に入って使わせてもらっていますよ。
真紀子さんは、口のうまさでは父親の「天才」を受け継いでいるのかもしれない。
じつはこの本を出した縁で、角さんのお墓参りがしたいんですけど、お墓は新潟の家の敷地内にあるから、入れない。
東京にもお墓があるかと思ったら、ないんだな。
せめて目白のお宅にお邪魔して、仏壇があったら拝ませてもらいたいんだけど、どうかなあ。
おそらく入れてもらえないんじゃないかな(笑)。
「週刊現代」2016年5月7日・14日合併号より
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石原慎太郎がいま明かす「私が田中角栄から学んだこと」~人を見て、先を見通す天才だった~
週刊現代 2016.05.06
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48554
■石原慎太郎が語る田中角栄と日本政治!日本の政治はちゃちになってきた!
【石原慎太郎】 報道2001>石原慎太郎の「田中角栄と橋下徹」
YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KkiBDlj6-k8
■石原慎太郎語録
高速道路、新幹線、飛行機のネットワーク...私たちが生きている現代を作ったのは田中角栄だ。
石原慎太郎
政治家には先の見通し、先見性こそが何よりも大切なので、未開の土地、あるいは傾きかけている業界、企業に目をつけ、その将来の可能性を見越して政治の力でそれに梃子入れし、それを育て再生もさせるという仕事こそ政治の本分なのだ。
石原慎太郎
日本の政治家はみんな官僚みたいになりました。大学の教授に『田中角栄のことを一人称で書いたらどうですか』って言われ、なるほどな、と思って書きました。田中角栄とは天才ですね。郵政大臣の時に43のテレビ局全部を認可しました。新幹線も高速道路も、飛行場もそうです。すごい。こんな政治家いませんね。
石原慎太郎
ロッキード事件は完全にでっち上げです。よく分かりました。角さんが総理大臣をやっていた昭和49年の参院選。あのとき自民党の公認料は1人3千万円ですよ。選挙で使ったお金は300億円です。だから、ロッキード事件の5億円は角さんにしたら選挙費用の中で、はした金。金集めたら偉いと思わないけど。それに彼が作った個人立法が33本あるんですよ。政治家1人が個人的に作った法律がそんなに通用している政治家はいませんよ。
石原慎太郎
彼はアメリカという支配者の虎の尾を踏み付けて彼らの怒りを買い、虚構に満ちた裁判で失脚に追い込まれた。アメリカとの交渉で示した姿勢が明かすものは彼が紛れもない愛国者だったということ。
石原慎太郎
いずれにせよ、私たちは田中角栄という未曽有の天才をアメリカという私たちの年来の支配者の策謀で失ってしまったのだ。歴史への回顧に、もしもという言葉は禁句だとしても、無慈悲に奪われてしまった田中角栄という天才の人生は、この国にとって実は掛け替えのないものだったということを改めて知ることは、決して意味のないことではありはしまい。
石原慎太郎
(未曾有の日本国の高度な繁栄等は)その多くの要因を他ならぬ田中角栄という政治家が造成したことは間違いない。田中角栄という天才の人生は、この国にとって実に掛け替えのないものだった。この歳になって田中角栄の凄さが骨身にしみた。
石原慎太郎