■コロナ禍の日本で無気力が蔓延したのはなぜか~忘れてしまった政府に「抵抗する」権利~
東洋経済 2020/12/24 的場昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学副学長
https://toyokeizai.net/articles/-/398167
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2020年初頭まで誰も予想さえしなかった新型コロナウイルス感染症が、世界を覆い続けている。
これまでも伝染病は何度も襲来していたのだが、それらは極地的で断続的なものであり、世界中を一度に覆うようなことは考えさえもしなかった。
今は21世紀、科学の時代である。
そんなことが起こるはずがない。
誰もがそう思っていた。
これまでも気候変動による災害や天変地異といった、21世紀に入ってこれまで考えなかったリスクがあちこちで発生している。
確かに、「これまでと同じままでいられる」とは誰も思っていない。
しかし、ここまでコロナ禍が世界を覆うことになるとは、誰も予測できなかったはずだ。
・科学が政府を乗っ取った
伝染病は人類の大敵のひとつだ。
ただ、今回のような国家によるロックダウンなどという政策はありえなかった。
検疫は昔からあったが、それは限定的な地域に当てはめられるにすぎなかった。
国家全体、あるいは世界中に広まるロックダウンは考えることもなかったのだ。
逆にいえば今回の事態は、近代科学の発展によってもたらされたともいえる。
今では科学が信頼されるがゆえに、科学者の言葉が重く受け取られ、それが国家の政治に反映したとさえいえるだろう。
科学という領域が政治を乗っ取った。
20世紀とは、科学が宗教に取って代わる普遍的地位に就き、何事も「科学的であることこそ真理」という一種の転倒が実現した時代だ。
科学主義は人類に幸福をもたらしていることも確かだ。
しかし、他方では原子爆弾などの科学兵器を生み出し、人類に一触即発の危機をもたらしている。
もちろん科学者は、あくまで最良の方法を提示しただけなので、具体的な政策決定に関与したわけではない。
ただ、政治家がそれをあまりにも真面目に受け取ってしまうと、科学者が大きな影響を及ぼすことにもなるのだ。
21世紀、とりわけリーマンショック以後、経済的停滞や経済格差によって生み出されたさまざまな不安を受けて、どの国でも、とりわけ先進国と言われる国では、政治的な不安定状態が続いていた。
不安定は、国民の多くを納得させる政治ができていないということから生まれている。
ロシアや中国、トルコのみならず日本やアメリカなどでも、ある種のポピュリズム的政治家が出現している。
一方からの強烈な支持と、他方からの激しい抵抗の中で、強面で挙国一致の愛国主義を訴える政治家の出現である。
彼らは、このコロナ禍をチャンスだと考えたのだ。
伝染病は、科学という旗の下に、合法的に反対運動や抵抗運動を規制できるチャンスである。
大義名分は「個々人の生命を守る」という安全にあるが、実質的には人々を隔離することで抵抗運動を弱体化させるという、治安としての安全をもたらした。
それは、フランス革命が国民の安全を守ると称して反対派を摘発し、出版や集会の自由を規制していったことを考えると、彼らにとってこの安全という言葉がどのような意味を持つかがわかるはずだ。
安全とは政権の安全でもあるのだ。
・政治家に都合のよい「生命を守る」という名分
2018年11月の半ばから、フランスでは「黄色いジャケット運動」が、毎週土曜日に続けられていた。
1カ月で終わるかと思われていたこの運動は、コロナが世界を覆いつくし始めた2020年も毎週開かれていた。
この運動は2019年12月のストライキも伴い、政権にとって動きの取れない状況を生み出していた。
この運動は、地方から全国的な広がりをもっていった運動であった。
年金生活者や失業者など、ガソリン価格の上昇に怒った人々が、マクロン政権の新自由主義的政策に抗議したのだ。
運動の起こりは組合運動のような組織的運動ではなく、小さなサークル運動から始まった、いわば個人によるマニフェストに近いものであったといえる。
それがやがて全国に拡散していったのだ。
国家は誰のものか。
それが民衆のものであれば、政体はデモクラシー(民主政)である。
君主のものであれば、政体はモナーキー(君主政)である。
しかし、民衆のものといっても、選挙が終われば民衆は、政府に権利を委譲する。
だから正確には、それはデモクラシーではない。
もしデモクラシーが本当にあるとすれば、中央権力のない社会、直接民主政の社会しかない。
19世紀のフランスの思想家であるプルードン流にいえば、権力が集中しない状態すなわちアナーキーな状態こそ民主政かもしれない。
だから民衆は、真にデモクラシーを実現するには、つねに政府に抵抗する権利を持つべきなのだ。
2020年3月、ヨーロッパでコロナ禍が広がる中で各国政府がロックダウンを行うことは、新型コロナウイルス感染症を封殺するのみならず、人々の抵抗権をも封殺することになるはずだった。
4月、通りから人々がいなくなり、抵抗が消えたとき、コロナ以上に不気味なものが世界を覆ってしまった。
人々の自由な抵抗権の喪失である。
個人の自由といえども、それは社会によって規制されねばならないといわれる。
なるほど一面そうであるが、しかしこれまで、どれだけの政権がそれを言い訳として、個人の権利を封殺してきたのであろうか。
まるで国家非常事態における戒厳令のような世界が2020年、突如として出現したのだ。
2019年秋には、チリやボリビアなど各地で学生や市民の反政府運動が起こっていた。
しかし、これらの運動もコロナ禍とともに消えていった。
戒厳令(martial law)は、すなわち戦争下の強制的制限法である。
今では「何時以降、レストランは営業してはならない」とか、「外出をしてはいけない」といった、まるで戒厳令下のような法令が、政府の手によって安易に出され続けている国がある。
これは由々しき事態である。?
それはまた、経済的な理由から一時解除されたヴァカンスシーズンの終了後、再度行われつつある。
しかし、それがたんに新型コロナ感染者・患者数が増大しているために民衆を守るための安全対策だと考えるのは、あまりにも能天気だ。
だからこそ、チリでもフランスでも再びデモが始まり、その不満は政府の政策とコロナ禍での強権体制に向けられているからである。
・権力者の独裁を拒否する権利はある
歴史的に見て、個人の自由は中央政府から与えられたものなどではない。
そこから人々がつかみ取ってきたものである。
だから安易に従属することは、権利の放棄を意味する。
フランスの16世紀の思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ポエシは『自発的隷従論』の中で、「国民が隷従に合意しないかぎり、その者(圧制者)は自ら崩壊するのだ」(西谷修監修、山上浩嗣訳、ちくま学芸文庫、2013年)と述べている。
要するに、権力者の独裁と戦うには隷従を拒否し、自由になることを日々心掛けねばならないのだ。
ベラルーシで行われているルカシェンコ大統領の独裁に対する抵抗運動は、コロナ禍でも西側の国々がこぞって支持している。
だとすれば、その支持はそのまま西側の政治家に対する抵抗運動に対しても当てはめられるべきだ。
「フランスやドイツでの抵抗運動はファシストの集団であり、ベラルーシとは違う」などと軽々しく言うべきではない。
では、日本ではどうか。
けなげにも、人々は権力に隷従するかのようにおとなしい。
それこそ、日本人の美徳だという意見もある。
しかし、私はそれを無気力と呼びたい。
安倍晋三政権下で起こったさまざまな疑惑が何も究明されないまま、新型コロナウイルスとともに封印されてしまうとすれば、このおとなしさは結局、抵抗権を失った隷従といえないのか。
移動の自由や集会の自由は、新型コロナウイルスに対する一定の予防措置が十分可能であるとすれば、当然の権利として認められねばならないはずだ。
だとすれば、一時停止されたが、政府から「Go To トラベルキャンペーン」で自由に動いてほしいというものだ。
しかし、政府からそう言われる前に、政府に抗して、自由に移動し、何事に関しても自由に語るべきである。
今こそ、われわれは、自らの抵抗の権利をかみしめるべきだろう。
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コロナ禍の日本で無気力が蔓延したのはなぜか~忘れてしまった政府に「抵抗する」権利~
東洋経済 2020/12/24 的場昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学副学長
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