■イギリスによるアメリカ大陸の植民地化
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イギリスによるアメリカ大陸の植民地化は、アメリカ大陸の先住民にも多大な影響を及ぼしている。
イギリスは植民地化に際し、彼らを直接的には軍事力で、間接的にはその文化を混乱させ疫病を引き入れたことで、先住民の生態に劇的な変動をもたらした。
入植者と先住民との関係の中には、交易関係を結んだものもあるが紛争になったものも多く、多くの先住民社会は入植者に対抗する戦士集団を育て、長期間に亘って戦闘が続いたケースも珍しくない。
当時の先住民の野性的な戦闘スタイルは、入植者に対して破壊的な威力を見せる事もあったが、長期的に見れば、概して入植者側が最終的な勝利を収めている。
フランスと同様、先住民との交易はイギリスの植民地政策の重要な部分を占めていたが、植民地への人の移住と土地の開発には、それ以上に重点が置かれていた。
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イギリスによるアメリカ大陸の植民地化
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■オーストラリアの歴史
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・植民地支配の本格化
18世紀後半に至ると、イギリスはこの地の開発を本格的に進めるようになる。その目的は、先住民の迫害を伴う資源獲得や囚人対策と言われている。
・侵略、植民地主義
イギリスでは、輸入される羊毛の過半をオーストラリア産のものが占めた。
牧羊に必要な土地は、未開の公有地を無断で開拓する、いわゆるスコッターの横行によってもたらされた。
総督府は居住地制限を実施したが効果はほとんどなく、現状を追認せざるを得なかった。
こうした開発は、アボリジナルとの間に流血の抗争を生んだ。
その一方で、入植者との混血も進んだ。タスマニア島では、アボリジナル女性トゥルガニニが1876年5月に死去したことをもって、「純血」のアボリジナルは絶滅したとされる。
・白豪主義
大英帝国によるオーストラリア大陸侵略・植民地支配以来、アボリジニへの迫害や人種差別政策が行われ続けてきたが、19世紀後半は、白人の優越を原則とする「白豪主義 (White Australia policy) 」が強化された時代でもあった。
その大きな要因はゴールド・ラッシュである。
上述の通り、中国人が金鉱採掘のため大量に流入し、競争相手たる白人採掘者との間に摩擦が生じた。
白人の反感は中国人の移住制限となって現れた。
対象はサトウキビ生産のため連れて来られたオセアニア諸国の人々(カナカ人)や真珠採取のための労働力となった日本人など、他の有色人種にも拡大し、大英帝国の一員であるはずのインド人にまで規制が加えられた。
その手段として用いられたのが、「ナタール方式(南アフリカのナタールで行われた方式)」と呼ばれる語学試験であった。
これは、担当官が読み上げるヨーロッパの言語による文章を移住希望者に書き取らせるというもので、これによって非欧米系の移住希望者は軒並み排除された。
他方で、イギリス本国やアイルランドからの移民は積極的に受容された。
こうした動きと並行して、法制の整備も進んだ。植民地政府は1855年、中国人がヴィクトリアに入国する際に課税をする移住制限を実施。
この動きは周辺の植民地にも拡大し、クイーンズランドでは1877年に「中国人移民制限法」が、ニュー・サウス・ウェールズでは1896年に「有色人種制限及び取締法」が制定された。
1901年に制定された連邦憲法の第51条には、移民を制限する権利や、有色人種を対象とする特別法を制定する権利を連邦が持つことが明記された。
これを根拠に「連邦移民制限法」が成り、有色人種の移住制限が全土に適用されることとなった。
こうしてオーストラリアは、世界で初めて人種差別を国是として法制化した連邦制をとり、その後1907年にイギリス連邦の一員としてのオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)なった。
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オーストラリアの歴史
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■カナダの歴史
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「カナダの起源は17世紀初めにフランス人がセントローレンス川流域に入植したのが始まりである。
1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれた。」
・前史
「カナダの先住民は4万年前の氷期にシベリアからベーリング海峡がまだ陸続きだった頃新大陸に渡ってきたインディアン(モンゴロイド)である。
インディアンの時代はカナダ史上、「ファースト・ネイションズ」(First Nations)と呼ばれる。
西暦1000年頃には北欧のヴァイキングがアイスランドからニューファンドランド島に到達し、さらに南下したが、ヴァイキングの居住地は永続しなかった。」
・ヌーベルフランス
「16世紀半ば、この地はフランス領となった。
1608年フランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地(現在のケベック・シティ)を創設した。
フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易の拠点を作ることで、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は1627年、ヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ね、同時にカトリック教徒以外の者が植民地に入植することを禁止した。」
「1763年のパリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となった。
これ以後、イギリスはカナダ植民地と称するようになる(ただし、カナダの名称は仏領時代から存在した)」
・英領カナダ
「新たに英国の支配下に入ったフランス系住民は約65,000人に達し、すべてカトリックであった。」
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カナダの歴史
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■ハワイ王国最後の「悲劇の女王」、リリウオカラニの物語
先住民のために立ち上がるも、白人に退位させられ王国に終止符
ナショナル ジオグラフィック(2021/6/11)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/21/051700236/
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ハワイの各島は、長いこと世襲制の王が統治していた。
1778年に初めてヨーロッパの探検家ジェームズ・クックがやってくると、貿易によって文字などが発達した。
ハワイ島の戦士カメハメハは、ヨーロッパ人が持ちこんだ武器を活用してほとんどの島を征服し、1795年にハワイ王国の建国を宣言する。
これにより、他国からの干渉を受けにくくなった。
一方で、ハワイの伝統的な社会は失われていった。
感染症が持ちこまれたせいで、1840年までに先住民の数はクックが訪れたときからなんと84%も減少した。
ヨーロッパの考え方を取り入れた立憲君主国となったことで、従来の社会構造も一変する。(参考記事:「ハワイ 知られざる溶岩の迷宮」)
布教者から、サトウキビのプランテーションの用地買収に訪れる米国人起業家まで、島に移住する西洋人が増えた。
プランテーションの労働力として、東アジアをはじめとする世界中から低賃金労働者が集められた。
ほどなくハワイはサトウキビの一大生産地となり、1874年に米国に輸出した砂糖は1万トンを超えた。
ハワイの重要性は経済面だけにとどまらなかった。
アジアと米国の間に位置することから、太平洋上の拠点を探していた米国は、ハワイを戦略的要衝と見なすようになり、米国に輸出する砂糖に多額の関税という圧力がかけられた。
1895年1月、彼女の署名によって、ハワイ王国の歴史に終止符が打たれた。
その後まもなく、リリウオカラニが統治していた島々は、ハワイを金のなる木だと見なすようになっていた白人移民たちの働きかけにより、米国に併合される。
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ハワイ王国最後の「悲劇の女王」、リリウオカラニの物語
先住民のために立ち上がるも、白人に退位させられ王国に終止符
ナショナル ジオグラフィック(2021/6/11)
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