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■平野歩夢名言集

2022-02-16 05:44:31 | 日記


■平野歩夢名言集

 

 

 

 


オリンピックって特別すぎるんです。ほかの大会とは違うプレッシャーがあるので、普段の感覚、状態そのままではいられなくなります。ある意味、自分がスノーボーダーとして追求している滑りとは違う部分を出さなければならなくて、そこの切り替えがすごく難しいんです。

 

 

 

 


今は小さい頃に見ていた景色とは真逆の状態で、自分がスノーボードを進化させ続けていかなければならない立場にあります。

 

 

 

 


細かな高さや跳びばかりではだめというのがスケートボードのポイントの基準。それに、僕は滑っている期間が他の選手に比べて少ない。海外の選手たちと比べると、パークの中ではまだまだ経験が足りないので、いろいろなパークを滑り慣れていかないといけない。

 

 

 

 


いろいろな人の気持ちや意見を聞いて受け入れることも、自分の成長になるのかなと。いろいろな人を見て、いろいろな人と会話して、この人はこう思っているけれど周りはこう思っていて、と感じることは、あらためて自分を見つめ直すために必要だと思っています。

 

 

 

 


何かを失ってでも得ようとする気持ちによって、精神的強さも生まれるし、結果よりももっと先の自分のためにつながることだってあります。自分にしか得られないものを、この横乗りを通じて、これからの子たちに伝わることが生まれれば良いと思います。

 

 

 

 


始めた頃(4歳)の記憶としてはっきりとしたストーリーは覚えていないですが、5、6歳の時にスケートパークの外にあった大きなバーチカル(スケートボードのハーフパイプの名称)でずっと繰り返しターンの練習をしていたことは覚えています。

 

 

 

 


子どもたちの憧れになるようなパフォーマンスをするためには練習の仕方も人と同じことをしていてはいけない。そういう意味ではすべて自分の頭で考えて作り出したものでなければ世界にはなかなか通用しないし、年々そこの部分が大事になってくるのかなって思います。

 

 

 

 


集中力を欠いてしまったときにケガすると思うから。それに1日に詰め込んでもダメだと思うんです。その次の日も滑るだろうし、身体のコンディションを考えながら、集中するところは集中して取り組むようにしています。

 

 

 

 


でも毎日楽しくやっていたわけではありません。小さい時から遊びじゃないという意識もあったので、父の指導もとても厳しかったですし、当然怪我もいっぱいするので辛くて行きたくないと思うこともよくありました。

 

 

 

 


やり方が全然別物。乗ってる物(ボード)は似ている雰囲気があると思うが、実際にやってみると、こっち(スノボ)がうまいからこっち(スケボー)もうまいというのは現実的にない。

 

 

 

 


なんて言えばいいんだろ..今でも苦しい形を作らないと今後自分は成長できないんだなと小さい頃から今でも...それを信じてやっているのかなという風に僕は思います。

 

 

 

 


やっぱりサッカーや野球よりも全然(人気や規模の)レベルが下のスポーツなので。でも、本当にそれくらいビッグで有名なスポーツに持っていくことは不可能ではないと思っています。

 

 

 

 


自分よりもさらにプレッシャーのある中で、最終滑走で、これまで決めたことないトリックをあの場で決めてくるというメンタルの強さにびっくりしました。(ホワイトに)転んでほしいとか、そういう願いはしていませんでした。3ヒット目くらいには「これを決められたら抜かされるだろうな」と。

 

 

 

 


自分の目的としては時間かけなきゃできないことだったり、人が今現在やってない事とかっていうものをチャレンジしたいっていうのを前々から思ってる所があってそれが最終的にはお金でも買えない、時間でしか辿り着けない自分の将来の事まで考えて今後はチャレンジ出来ればと思ってるんで。

 

 

 

 


僕自身の滑りでも、高さだとか、スノーボードやってるからこういう滑りができるんだよなっていうのを、少しでも感じてもらいたい。自分にしかできない魅力的な滑りがちょっとでも伝わればと思って今日は滑った。

 

 

 

 


自分も小さい時には上の人たちのことを、憧れを抱いて見ていたので。誰もが小さい時にはスターのような存在はいると思います。だから自分も世界の子ども達からそういうふうに見てもらいたいっていう意識はあります。

 

 

 

 


スケートボードは楽しんで(滑る)。スノーボードよりも楽しむことがメイン。本当にみんな上手なので、そんなに簡単にはいかないのが現実だと思う。楽しめて、結果よりもそこが次につながればいいかなって。

 

 

 

 


これ以上なにをよくすればいいんだろうと思うくらい自分が準備してきた物が多かったり色々やれることやってきた4年間だったんで、すごい自分の中で常に疲れてるだとかあんまり笑顔がないような苦しい気持ちになってた事が今思えば多かったのかなと思います。

 

 

 

 


細かく言うと、キャッチの完成度、あとは高さ。本当だったら、もっと自分だったら出せるところなので、そこはもう少し点数を伸ばせたかなと思います。あとは決勝3本目でさらにもう1ヒット、技を入れられたら、点数も変わっていたかなと。そういうところで悔しさがあります。

 

 

 

 


スノーボードで頂点をとり続けることは簡単ではないことを、あらためて今回、実感しました。本当に人一倍、(一歩)先のことをするんだったら、自分が考えた式と答えのなかで、人と違う滑りで上のものを目指しながら、結果を取り続けられたらなと思っています。

 

 

 

 


高さを自分の一番の武器にしていてスピンより自分の滑りというものに魅力というか、1発で「あれがアイツ」というような自分の1つのスタイルとして高さを追求しています。そういう意味で、小学校3、4年生くらいから1発目のヒットには必ず誰よりも高く飛べるエアターンを用意してきました。

 

 

 

 


東京オリンピックに関しては……、ここから目指すというのは、すごいハードなトレーニングになると思うので。自分は、まだはっきり決めていない部分もあります。その部分を、これから、しっかり整理して考えられたら……。当然、可能性があれば、という形で考えてはいます。

 

 

 

 


ほんと4年間時間がたってるんで、やっぱりいろんな思いだったり、それなりに自分もいろいろ考えて、4年生活してきたっていうのが、いろんな思い詰まって、なおさら前回よりいい銀メダルなのかなっていうふうな、そんな印象ですね。

 

 

 

 


これ以上の回転というのが、ハーフパイプでは限界まで来ているというのも現状です。今できることの高さや完成度、プラスアルファで「DC14(ダブルコーク1440)」を3つが、自分がさらに勝ち続けるなら必要だと思います。

 

 

 

 


俺、小さい時にテレビで言っちゃったんですよね。スノーボードとスケートボードで世界一になるって、だからやるしかないんですよね。

 

 

 

 


でも毎日楽しくやっていたわけではありません。小さい時から遊びじゃないという意識もあったので、父の指導もとても厳しかったですし、当然怪我もいっぱいするので辛くて行きたくないと思うこともよくありました。

 

 

 

 


スケートボードで五輪に出たい、東京五輪に出たいというのは、それ自体が目的ではないんです。自分の人生として、スノーボードをやってきましたし、またスケートボードもやってきました。自分は人がやっていない道をたどりたいというか、何の足跡もないところを目指しているので。

 

 

 

 


本当に人一倍、(一歩)先のことをするんだったら、自分が考えた式と答えのなかで、人と違う滑りで上のものを目指しながら、結果を取り続けられたらなと思っています。自分のこだわっているものや勝ち方にこだわりながら、また頑張っていきたいなと思います。

 

 

 

 


体から落ちるスノーボードと、コンクリートに対して足から衝撃を吸収しなければならないスケートボードはやり方が別です。

 

 

 

 


父さんが好きだったというものもあって尾崎豊がすごく好きになってとかその世代のちょっと古いんですけどスポーツを通して共感できる部分とかっていうのもあってそういうのを聞いたりします。

 

 

 

 


音楽だったり、滑る前の日にちゃんと私生活の面でちょっと気合入れて、なんかほかのことで取り組んでから、次の日スノーボードすることによって、自分のフィールドで、自分のテンションのなかで集中できるんで、それと同じような気持ちで大会も出られれば一番いいなとは思ってますね。

 

 

 

 


カッコいいライディングで魅せるスノーボーダーって世界中にたくさんいる。逆に、カッコよさを犠牲にしてまで自分と戦ってるヤツは少ない。このスタイルの違いはオレの中で明確に分かれていて、だから、あえてこっちの道を進もうっていう考えでもある。

 

 

 

 


野球とバスケを両立しているのと一緒。同じ横乗りでも、それぐらい、似ているようで離れている。

 

 

 

 


五輪っていう小さい頃からの目標が、いろんな意味で自分のスノーボードに大きな影響を与えてるんだってことをすごく感じていて......。そういうことを理解するのにすごく時間がかかりました。

 

 

 

 


1回目は連続の4回転というよりは、4回転決めて、下でもうちょっとコンビネーションとしての、2本目に備えてのルーティーンを自分でイメージしてたんですけど、着地が上手くいかなかったんで、2本目からは攻めようというふうな気持ちは最初から、今日大会の前から思ってたんで。

 

 

 

 


車も親の車借りてちょっと出掛けたりするんですけどあんまり運転楽しいか楽しくないかでいったら意外となんとも思ってなかったり(笑)普通に音楽流して黄昏て...あんまりどこ行きたいとかは...それなら家にいたりする方が...

 

 

 

 


ショーンに興味を持ったのは、スノーボードとスケートボードへの関わり方が自分と似ている気がしたからです。僕は今のところ、競技としてはスノーボードしかやってないけれど、滑りの基本のほとんどはスケートボードで学んだといってもいい。

 

 

 

 


今後のことも、今、自分が取り組んでいることが土台になるから、自分の将来の可能性もまだまだ無限に広げられると思うんです。だから、今は今しかできないことをやっていきたい。もちろん、自分のカラーを出しながら。

 

 

 

 


僕にとってのスケートボードは、競技のチャレンジだけではなく、精神的な部分でもチャレンジです。スノーボードで得ているものを失うかもしれない中でスケートボードをやっているのは、すごくリスクがあることだと思います。

 

 

 

 


引退するまでは色んなことをぶっちぎってやっていきたいですね(笑)。

 

 

 

 


スケートボードをやっている以上は、ひとつの挑戦という気持ちです。挑戦なので、そこには失敗がある。そのうえで、挑戦が良い形で実ればと思っている。それを自分の中での大きなテーマにしています。

 

 

 

 


リスクとかプレッシャーは今まで以上にすごく大きくて、何かに挑戦するってことはそれだけの注目も受け止めないといけない。そういう点でも人が経験できないところを、いま、前を向いて走っていると思う。その経験によって今まで以上に強くなることができればと思って挑戦した。

 

 

 

 


2つの競技をやってみて、共通するものは必ずあると思う。それを探しながら、このチャレンジに挑んでいるところもある。

 

 

 

 


あえて難しい道で戦って、精神的な強さが生まれることが自分のためにもなると思う。

 

 

 

 


自分は人がやっていない道をたどりたいというか、何の足跡もないところを目指している。

 

 

 

 

 

 

 


■平野歩夢とは?

 

 

 

平野歩夢。

スノーボード選手。

 


スケートボードも日本国内トップクラスの選手。

スノーボードとスケートボードの「二刀流」選手として、オリンピック夏冬のメダル獲得を目指す。

 


スケートパークを運営する父・平野英功のもとに生まれる。

4歳の時に3歳上の兄の影響でスケートボードとスノーボードを始める。

 


福島県南会津町の会津高原南郷スキー場や山形県小国町の横根スキー場でドロップインからラインどりの練習を行った。

その後小学4年時にスノーボードメーカー、バートンと契約し、2011、2012年の全米オープンのジュニアジャムで連覇を果たす。

2011年3月、アメリカ・バーモント州ストラットンで行われた全米オープンの決勝で13位に入る。

 


14歳で出場した2013年1月に開催されたX Gamesでは難易度の高い技を他のトップライダーが繰り出す中、圧倒的なエアの高さと、パイプ内でのパーフェクトな動きで史上最年少で銀メダルを獲得。

 


2月にスイスのラークスで行われた欧州オープンでは優勝。

同年8月にニュージーランドで行われたW杯開幕戦で優勝。

 


なお、平野は最年少でTTRワールドスノーボードツアーのハーフパイプ部門において年間王者になっている。

 


2014年のソチオリンピックで、平野は2月11日に行われた決勝で1回目で90.75点、2回目で93.50点をマークし2位につけ銀メダルを獲得した。

なお、15歳74日でのメダル獲得は冬季オリンピックにおける日本人史上最年少記録であり、平野と同種目で銅メダルを獲得した平岡卓と共に、日本人史上初のスノーボード競技でのメダル獲得となった。

 


また、平野はスノーボードにおける最年少のオリンピックメダリストとしてギネス世界記録に認定された。

同年4月に開志国際高等学校に入学。

 


2015年、欧州オープンで2位、全米オープンで3位等の成績を残し2014-2015シーズンから新設されたワールドスノーボードツアープロシリーズで男子ハーフパイプ部門でシーズン王者となる。

2015-2016年シーズン、平野にとっては開幕戦となった12月、ブレッケンリッジのウインターデューツアーに出場し予選を4位で通過、13日の決勝は2本目のランをうまくまとめ2位になった。

 


2016年1月、平野はスイスのラークスで行われたLAAXオープンに予選免除の招待選手として出場し、21日の準決勝を1位で通過して翌日の22日の決勝を3本目のランで完璧な滑りを見せ1位になり優勝、またオスロで行われた初開催されたX Gamesには決勝を1本目のランから高得点を出し初優勝した。

2016-2017年シーズンは未成年者選手の飲酒騒動を受けて、飲酒を否定している平野も第三者委員会の調査のため活動休止を余儀なくされた。

 


最終戦の3月の全米オープンでは左膝の内側側副じん帯を損傷と腹部を強打して肝臓も痛める大怪我をした。

2017年2月、平野は住宅メーカーの木下工務店などを傘下に持つ木下グループと所属契約を結ぶ。

 


それまで所属していたバートンからは引き続き用具の提供を受ける。

同年4月、日本大学スポーツ科学部に入学。

 


2018年1月28日に開催されたX Games ASPENでは、史上初連続縦2回転+横4回転を決め金メダルを獲得。

2018年平昌オリンピック、2月14日に行われた決勝2回目、平野は連続縦2回転+横4回転を決め95.25点をマークしてトップに躍り出るも、3回目最終滑走のアメリカのショーン・ホワイトが97.75点をマークして逆転。

 


惜しくも金メダルは成らなかったがホワイトに次ぐ2位に入り、平野自身冬季五輪で2大会連続となる銀メダルを獲得。

 


2018年ユニクロとグローバルブランドアンバサダー契約締結。

 

2018年11月、2020年東京オリンピックで新種目として採用されるスケートボードに挑戦することを表明。

 

東京オリンピックが1年延期されたことで2022年北京オリンピックとの間隔が狭くなり、スノーボードの練習との並立が難しくなる中で、2021年5月のスケートボードの国際大会で日本人トップとなり開催国枠で東京オリンピック出場権を獲得。

 

2021年8月5日に開催された東京オリンピックスケートボード男子パークに出場し、予選は通過できなかったが、日本で5人目となる夏冬五輪出場選手となった。

 

2022年2月11日に行われた北京オリンピック、スノーボード男子ハーフパイプ決勝にて「トリプルコーク1440」を1回目から成功させたものの転倒もあり9位、2回目は91.75で2位となり、「2本目の点数に納得いかず、そういう怒りが自分の気持ちの中でうまく表現できた」3回目の滑走では96.00点をマーク、いずれも日本人選手初となるスノーボード種目での金メダル獲得と冬季オリンピック3大会連続メダル獲得を成し遂げた。

 


■小平奈緒名言集

2022-02-16 05:44:02 | 日記

■小平奈緒名言集

 

 

 

 

 

 

私にとってのスケートは「学び」

 

 

 

自信のなかった自分とはお別れできたかな。

 

 

 

そこに「ない」から、手に入れるための手段や方法、時間をつくる。そういう環境に身を置いていること自体が、創造の一部。

 

 

 

視線の先に映る自分の姿を信じて。

 

 

 

平昌五輪チームビルディングの大切にしている一字は「輪」にしました。五輪の輪。スケートリンクの輪。応援の輪。スポーツで繋がる輪。友だちの輪。ありがとうの輪。希望の輪。

 

 

 

今を過ぎたものはそれに執着していては積み上がるものも積み上がらない。今が過ぎ去った瞬間に次の今に向けて高めていきたい。

 

 

 

生きるとは「燃えること」「楽しむこと」自分なりに「チャレンジすること」

 

 

 

オランダに単身留学した、勇気が必要だった。その様な辛いとき、お父さんからの「奈緒の人生は神様がくれた時間、悔いのないように思う存分に使いなさい」との言葉が伝わった。私の人生を支えた格言です。

 

 

 

31歳、まだまだ成長期。

 

 

 

与えられるモノは有限、求めるモノは無限です。

 

 

 

誰かの人生を生きることはできないけれど、誰かの生きる勇気にはなれる。

 

 

 

追い込むか。追い込まれるか。

 

 

 

私「小平奈緒」って生き方をしていきたい。

 

 

 

 

 

 

 


小平奈緒とは?(人生・生き方・性格・プロフィール・略歴など)

 

 

 

小平 奈緒(こだいら なお、1986年5月26日 - )は、長野県茅野市出身のスピードスケート選手。

相澤病院所属。

 


オリンピック日本女子スピードスケート史上初の金メダル獲得。

 


主な成績は、2010年バンクーバーオリンピック団体パシュート銀メダル、2018年平昌オリンピック500m金メダル・1000m銀メダル、2017年世界距離別選手権500m金メダル・1000m銀メダル、2017年世界スプリント選手権総合優勝、ISUワールドカップ総合優勝(500m)、他。

3人姉妹の末っ子として生まれた小平奈緒は、小学生の姉たちが通っていたスケートクラブの付き添いで3歳からスケート場に。

そのままスケートを始め、中学から通い始めた「宮田スケートクラブ」で力を伸ばした。

 


新谷純夫(新谷志保美の父親)を師とし、茅野市立北部中学校2年時に500mの中学記録を更新し、全日本ジュニア(スプリント部門)では吉井小百合を破り、史上初の中学生王者に輝く。

スケート強豪高校からスカウトされるもそれを断り、教員免許取得という夢に向かって信州大学進学を視野に入れ、スケート部のない伊那西高等学校へ進学しました。

 


スケート部は無く同好会で活動し、インターハイで500mと1000mの2冠獲得、全日本ジュニアでも優勝を飾る。

信州大学教育学部に進学。同級生には住吉都がいる。

 


大学在学中も、大会で優勝しつつ、勉強をおろそかにすることはなく、教員免許を取得し、文武両道を体現しました。

1年時に第25回日本学生氷上競技選手権大会500mと1000mの2冠も達成。

 


2年時の2006年10月には全日本スピードスケート距離別選手権大会1000m優勝。

4年時の2008年10月24日、全日本スピードスケート距離別選手権大会1500m優勝。

 


この間、大学から履修へ特別な配慮は受けず、単位を取得した。

2009年、信州大学教育学部生涯スポーツ課程地域スポーツ専攻卒業。

 


社会医療法人財団慈泉会相澤病院にスポーツ障害予防治療センターのスタッフとして採用される。

「長期出張」扱いとして競技に打ち込む傍ら、医学面でもサポートも受ける。

 


2009年の第16回全日本スピードスケート距離別選手権大会では500m、1000m、1500mの三種目で優勝した。

短-中距離での3冠は小平が初めてであり、スピードとスタミナを併せ持つ選手との評価を得る。

 


2009年11月7日のISUワールドカップ・ベルリン大会で500m3位、1000m2位に入った。いずれも日本人選手最高位。

2010年2月、初の冬季五輪出場となったバンクーバーオリンピックでは1000mと1500mで5位入賞。

 


女子団体パシュートでは、穂積雅子、田畑真紀とともに日本女子スピードスケート界史上初となる銀メダルを獲得した。

ソチオリンピックでは、500mで5位入賞、1000mでは13位だった。

 


ソチオリンピック後、相澤病院に籍を置いたまま、オランダに1年間の予定で練習の拠点を移した。

ヘーレンフェーンに本拠を置くプロチーム「Team continu」で活動する。

 


オランダに2年間滞在し、オランダ語を習得している。

2014年11月22日のISUワールドカップ・ソウル大会の500mでワールドカップ初優勝。

 


2015年2月に行われた世界距離別選手権の500mで3位入賞。

2014/15シーズンのワールドカップ500mで総合優勝した。

 


日本の女子選手がこの種目で総合優勝するのは島崎京子以来24年ぶり。

2017年2月、世界距離別選手権で、500mを37秒13で優勝、1000mを1分14秒43で2位。

 


500mでの37秒13は、ふたつの高速リンク(オリンピック・オーバルとユタ・オリンピックオーバル)で出た記録を除くと、当時世界最速の記録である。

2017年2月、スピードスケートの世界スプリント選手権、第1日の500メートル(36秒75)、1000メートル(1分12秒51)ともに日本新記録で総合首位、最終日も500メートルは1位、1000メートルは3位で総合優勝を果たした。

 


2017年3月11日、ワールドカップ同季最終戦、女子500メートルで37秒14のタイムで優勝し、2季ぶり2度目の種目別優勝を果たした。

2017年11月10日から12日に行われたワールドカップ・ヘーレンフェイン大会で500m、1000mで、いずれも優勝。ワールドカップで1000mでの優勝は自身初。

 


2017年11月17日から19日に行われたワールドカップ・スタバンゲル大会の初日、500m、1000mで、いずれも優勝。500mでの37秒08は、自身が2017年2月に江陵で出した37秒13を100分の5秒上回る、ふたつの高速リンクで出た記録を除いた中で当時世界最速の記録である。

 


また、500mは全勝だった昨季からの国内外における連勝記録を19に伸ばした。

ワールドカップ通算勝利数は岡崎朋美を超え、1000mと合わせ、日本女子歴代最多の14勝となった。

 


同大会の2日目の500mで、自身が前日に出した当時の低地世界最高記録を100分の1秒上回る37秒07で優勝。

1000mと合わせ、通算15勝目。

 


2017年12月1日から3日に行われたワールドカップ・カルガリー大会の2日目、1000mに出場したが、転倒により最下位に終わった。最終日に行われた500mで当時世界歴代2位となる36秒53で優勝。

2017年12月8日から10日に行われたワールドカップ・ソルトレイクシティ大会の初日、500mで5日前に出した自己記録を上回る36秒50で優勝。翌日の500mでも優勝し、この種目ワールドカップ15連勝。

 


最終日に行われた1000mで、1分12秒09の世界新記録をマークして優勝。

日本の女子選手が個人単種目で世界新記録をマークするのは小平が初。

 


2018年春の褒章で紫綬褒章を受章。

2018年の平昌オリンピックにおいて、最初の種目は女子1500mに出場し1分56秒11の記録で6位入賞を果たす。

 


次の種目は女子1000m、不利と言われるアウトスタートながら1分13秒82をマークし、個人種目では初の銀メダルを獲得。また高木美帆も銅メダル獲得となり、冬季オリンピックにおいて日本女子代表としては史上初の2人が表彰台に登った。

 


「絶対本命」と報道され続けた女子500mにおいてオリンピック新記録となる36秒94を出し金メダルを獲得した。

16組中14組のインスタートでの記録。

 


この記録は自身が持つ低地リンク世界最高記録を0秒13上回り、低地における初めての36秒台である。

スピードスケートの女子で初、日本選手団主将として冬季大会初めての金メダリストになった。

 

 

 


■羽生結弦名言集

2022-02-16 05:43:39 | 日記

■羽生結弦名言集

 

 

 

 


9歳くらいのときに、本当にやめたくなって、「やめる」「じゃあやめなさい、野球でもやりなさい」となった。そのときにふと思いましたね。まだ始めて5年たってないくらいだったけど、こんなところで終わらせてしまっていいのかな、僕、もうスケートに人生かけているな、と思った。

 

 

 

 


自分を貫いていると、家族に心配されたり、本当に信じている人に裏切られたりするかもしれない。ただ、そうやって自分自身を貫くことで後悔はしない。

 

 

 

 


優勝するしかないのなら、優勝すればいい。わかりやすい。

 

 

 

 


避難所で3日間すごしました。その避難所で、沢山の人たちに助けていただいて、だから僕はその皆さんの為に何でもしたいと思っています。僕が出来ることはスケートだけですが。

 

 

 

 


被災地のために、何かしよう、元気を出してもらおう、という気持ちで滑っていたけど、僕たちは逆に支えられている、元気をもらっている立場なんだということに気づきました。僕が1人でスケートをしているんじゃない。

 

 

 

 


プレッシャーを感じても乗り越えることができれば、自分が強くなれる。

 

 

 

 


自分でも気持ちが追い付かないくらいです。まるで、ジェットコースターに乗っているようです。勝てない時は本当に勝てないし、たくさん練習してすごく調子がいいと、ケガをする。その繰り返しです。いい時と悪い時の差が激しくて、自分でも付いて行けない時があります。

 

 

 

 


人生のプラスとマイナスはバランスが取れていて、最終的には合計ゼロで終わると思っています。だけど、振れ幅が大きいか小さいかは、その人次第。僕はプラスとマイナスの差が激しいんです。

 

 

 

 


プレッシャー、大好きですから。

 

 

 

 


試合前に緊張したり、不安になったりすることもあります。でもそれは、それだけ本気だという証拠。うまくいきたいって思っていなかったら、緊張もしないし不安にもならないですから。ネガティブな気持ちも、どうしてそんな気持ちになったんだろう、って考えられたら、プラスに変えていけると思います。そう考えると、フィギュアを通じて経験したことで、無駄だったことって一つもないと思っているんです。もちろん胸を張れることばかりではありませんが、いろんな経験をしていろんな感情を知っていれば、それを表現に変えられるかもしれない。怒りとか悔しさが、力強いジャンプにつながるかもしれない。だから、ネガティブな感情からも逃げずに、一つ一つの経験を大切にしていきたいなと思っています。

 

 

 

 


氷にもすごく感謝!

 

 

 

 


芸術というのは明らかに正しい技術、徹底された基礎によって裏付けされた表現力。ジャンプ、ステップ、スピン、全てにおいて正しい技術を使い、それを芸術として見せることが一番大切なことだと思っている。

 

 

 

 


芸術は絶対的技術に基づいたもの。

 

 

 

 


できる時にできることを精一杯やる。できない時はその時にできることをやる。

 

 

 

 


以前は、フィギュアは生活そのものだった気がします。でも震災やいろいろな経験を通して、生活は生活、フィギュアはフュギュアであってイコールではないと思うようになりました。「フィギュアがなくなったら、何もなくなってしまう」ということでは困るので、意識的に切り離そうとしているのかもしれません。でもフィギュアは、羽生結弦という人間を形成している軸であることは確かだから、人生の重要な一部であることは間違いありません。

 

 

 

 


できることを出し惜しみしてやっていてもつまらない、それは一生懸命ではない。

 

 

 

 


いかなる状況においても全力を出し切ることがスケーターとしての流儀です。

 

 

 

 


いつも心を開いているんです。心を開いていなきゃ、何も吸収できないしおもしろくない。心を開く事が成長の原動力。

 

 

 

 


逆境は嫌いじゃない。それを乗り越えた先にある景色は絶対にいいはずだと信じている。

 

 

 

 


フィギュアは、努力の大切さや諦めない強さなどポジティブなことも教えてくれましたし、自分の弱さや過信など、ネガティブな面にも気づかせてもらいました。そこから学んだ多くのことは、僕の考え方や普段の言動、社会生活に影響を与えているのは事実です。でも、実はすべてが正しいとは思っていなくて…何をどう受け入れるかは自分の選択次第なのだと思っています。僕とフィギュアの関係は、学ぶというよりも「フィギュアを通して、人生のいろいろなことを経験させてもらっている」そういう感覚が一番近いです。

 

 

 

 


僕は僕。羽生結弦以上でも、以下でもない。 ありのままの自分が出来る事を、 五輪でもしっかりやりたい。

 

 

 

 


一生懸命さが大事1分1秒を大切にする。

 

 

 

 


努力はウソをつく。でも無駄にはならない!

 

 

 

 


「負けても悔いはない」は嘘。勝てない試合が楽しいわけがない。

 

 

 

 


トラブルだって、いいきっかけになるんですよ。

 

 

 

 


僕がみんなを支えるなんて間違っていた。僕がみんなに支えられていた。

 

 

 

 


自分が相手だから、負けられない。

 

 

 

 

 

 

■羽生結弦とは?

 

 

 

羽生結弦。

宮城県仙台市泉区出身。

 


コナミスポーツクラブ泉のリンク(現・アイスリンク仙台)で1999年に佐野稔が開催した子供スケート教室に姉が通い始め、この姉の影響により羽生も4歳でスケートを始めた。

都築章一郎から、小学2年から小学6年まで指導を受けることとなる。

 


2004年10月に初出場した全日本ノービス(Bクラス)で優勝。

9歳で初めて金メダルを獲得した。

 


2007年、ノービスの選手(中学1年)ながら全日本ジュニア選手権で3位となる。ノービスの選手が全日本ジュニア選手権の表彰台に上がるのは日本男子史上初。

2008年からジュニアに上がり、ISUジュニアグランプリ (JGP)に参戦。全日本ジュニア選手権で初優勝を果たし、初出場となった全日本選手権では出場選手中最年少ながら8位に入る。世界ジュニア選手権でも大会最年少ながら12位となった。

 


2009年初戦のJGP トルン杯でJGP初優勝。続くクロアチア杯でも優勝し、JGPファイナルでは史上最年少(14歳)で総合優勝を果たした。全日本ジュニア選手権では2連覇を達成。

世界ジュニア選手権ではフリースケーティングで大幅にパーソナルベストを更新して優勝。

2010年4月、東北高校に進学。

 


2010 - 2011シーズン、シニアデビュー戦となったISUグランプリシリーズのNHK杯で、フリースケーティングで自身初となる4回転トウループを成功させ4位に入賞。出場3回目の全日本選手権では4位となり、四大陸選手権の代表に選出された。

2011年2月に開催された四大陸選手権ではショート、フリーともに自己ベストを更新する演技で、初出場で銀メダルを獲得。男子選手としては四大陸選手権史上最年少のメダリストとなった。

 


2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。地震発生時は仙台市のアイスリンク仙台で、先輩スケーターと貸切状態で練習中であり、四つん這いでスケート靴を履いたまま外へ避難した。

羽生本人や家族、阿部コーチやリンクメイトは無事であったが、同リンクは被災して営業休止になり、自宅も大きな被害を受けたため避難所で4日間過ごした。

 


2011年初のISUグランプリファイナルでは、総合得点でパーソナルベストを更新するが、1.73点の僅差で表彰台に届かず4位となる。全日本選手権では、ショートプログラムで4位と出遅れたが、フリースケーティングで1位となり総合3位、これにより自身初となる世界選手権代表に選出された。

世界選手権は総合で3位に入り、初出場で銅メダルを獲得。

 


17歳3か月でワールドメダリストとなったが、これは日本男子史上における最年少記録となっている。

2012年フィンランディア杯ではフリーでトゥループとサルコウの2種類の4回転ジャンプを成功させ優勝。グランプリシリーズでは初戦のスケートアメリカ、地元・宮城県で開催された第2戦のNHK杯と、2戦続けてショートプログラムで歴代最高得点を更新、GPファイナルでは2位となる。全日本選手権では初優勝を果たした。

 


2013年4月に早稲田大学に進学した。

2013年7月に全日本空輸(ANA)と所属契約。

 


シーズンインするとフィンランディア杯で2年連続の優勝。スケートカナダとエリック・ボンパール杯はともにパトリック・チャンに次ぐ2位。福岡市で開催された2013年GPファイナルではショートプログラムの歴代最高得点を更新、フリーでは自己ベストを大幅に更新し、総合1位でGPファイナル初優勝を果たす。続く全日本選手権では2連覇を達成し、オリンピック代表に初選出された。

 


2014年2月、ロシアで開催のソチオリンピック本番では、同大会から新種目としてスタートした団体戦でショートプログラム1位となるが、日本代表の最終結果は総合5位に留まった。

男子シングル個人種目では、ショートプログラムの『パリの散歩道』で101.45点をマーク、公式大会世界最高得点かつ、史上初の100点超えを達成し首位に立った。

 


フリースケーティングで自己ベストには程遠い178.64点にとどまったが、SPで2位につけていたパトリック・チャン(カナダ)は単独の4回転トウループと3回転アクセルで手を着き、さらに終盤の2回転アクセルでもバランスを崩すなどの着氷ミスが続き、羽生のフリーの得点を上回れず銀メダルに終わった。その後に滑走した2選手もメダル圏内にはおよばず、結果羽生はフィギュアスケート男子シングルの種目において、アジア人初となる冬季オリンピックでの金メダルを獲得した。

 


ソチオリンピックでは日本人唯一の優勝、また平成生まれの日本人として史上初の夏季・冬季を通して五輪の金メダル獲得となり、さらに日本選手で過去冬季五輪の金メダル獲得は記念すべき10個目となった。

2014年3月、さいたま市で開催された世界選手権では、ショートの4回転トウループで転倒し3位と出遅れた。しかしフリーで、国際スケート連盟主催の大会で自身初の4回転サルコウジャンプを成功させ、逆転優勝を果たした。

 


2014年11月、上海開催の中国杯ではショートプログラムで2位スタート。フリースケーティング前の6分間練習で、中国の閻涵と衝突事故が起きた。

頭部と顎にテーピングと包帯を施したままの状態で演技に臨んだ。

 


最後までプログラムを滑りきり銀メダルを獲得した。

精密検査の結果、頭部挫創・下顎挫創・腹部挫傷・左大腿挫傷・右足関節捻挫で全治2~3週間と診断を受けた。

 


次戦のNHK杯は総合順位は4位となるものの、この結果、ISUグランプリシリーズポイントランキング6位となり、最下位でグランプリファイナルへと進出。

グランプリファイナルでは1番滑走で臨むことになったショートでシーズンベストを記録し首位に立ち、フリーでは2種類の4回転を成功させ自己ベストを更新。日本男子初となる大会2連覇を達成。

続く2014年12月、全日本選手権では3連覇を達成したものの、グランプリシリーズ時から断続的に続いていた腹痛の精密検査のため、エキシビションを欠場して緊急入院。「尿膜管遺残症」との診断結果により、翌12月30日に手術を受けた。

 


2015年GPファイナルでは、世界記録を再び塗り替え、男子史上初の3連覇を達成した。

続くNHK杯では「挑戦という意味を込めた」として、ショートに4回転サルコウと4回転トウループ - 3回転コンビネーションの4回転2本を組み込む、自身最高難度の構成に急遽変更。

 


ノーミスの演技で、ソチオリンピックで自身が記録した101.45点の世界最高得点を更新する106.33点をマークした。

翌日のフリーでは、演技後半の4回転 - 3回転コンビネーションを含む計3本の4回転のほか、すべてのジャンプを成功。

 


技術点は出来栄え評価で23.08点もの加点を獲得し、史上初の200点台となる216.07点を記録した。

トータルスコアでも史上初の300点台となる322.40点を記録し、パトリック・チャンが保持していた295.27点の世界歴代最高得点を大幅に塗り替える前人未到のスコアで優勝を果たした。

 


この大会で羽生はショート、フリー、トータルの全スコアで世界記録を更新。

ISUジャッジングシステムにおいて、史上初めてショートプログラムで100点、フリースケーティングで200点、トータルスコアで300点超えを達成した男子選手となった。

 


さらに2週間後のバルセロナで開催されたグランプリファイナルのショートプログラムにおいて、NHK杯を超える演技を披露。110.95点を叩き出し、わずか2週間で再び世界記録を塗り替えた。

一日置いたフリーでもノーミスの演技を披露。4回転サルコウ、4回転トウループともにGOE満点を獲得し、技術点は120.92点に到達。トータルで330.43点というスコアを叩き出し、再びすべての世界記録を更新した。

 


男子選手としてISUグランプリファイナル史上初となる3連覇を成し遂げた。

2017年3月にヘルシンキで開催された世界選手権に出場。ショートでは、109.05点で自己ベストを更新した首位のハビエル・フェルナンデスとは10.66点差の5位発進と大幅に出遅れる。

 


しかし最終グループ1番滑走で臨んだフリーでは、鬼門となっていた演技後半の4回転サルコウ+3回転トウループの連続ジャンプを今季初めて完璧に成功。4回転4本に加え、すべてのジャンプを加点つきで成功させるという圧巻のノーミス演技を成し遂げ、自身が持つ世界最高得点を更新する223.20点を叩き出した。

 


トータルスコアはシーズンベストとなる321.59点で、4位までが300点を超える空前の激戦を制し、史上初となるショート5位からの逆転優勝を飾った。世界選手権の優勝は2度目となり、3年ぶりに世界王者の座を奪還した。

平昌オリンピック2018年2月16日、江陵アイスアリーナでショートプログラムに出場。

 


4回転ループは回避するも、演技後半のトリプルアクセルは、審査員全員からGOE満点の評価を得るなどすべてのジャンプを完璧に決め、ブランクの不安を払拭する圧巻の演技を披露した。

自己ベストに肉薄する111.68点をマークし首位発進となる。

 


翌17日に行われたフリーは冒頭の4回転サルコー、続く4回転トーループでGOE満点を獲得する完璧な滑り出しで序盤のジャンプはすべて成功。

長いブランクからスタミナが懸念された演技後半も、大きなミスは1つにとどめ、フリーでは演技構成点トップ、ショートプログラムとの合計317.85点と2位以下を10点以上離し、ソチオリンピックに続き2大会連続で金メダルを獲得。

 


男子では1948年サンモリッツオリンピックと1952年オスロオリンピックを制したアメリカのディック・バトン以来66年ぶりとなる連覇を達成した。

冬季オリンピックの個人種目で日本人が連覇を果たしたのは史上初である。

 


国民栄誉賞の授与が発表。

歴代27例のうち、冬季五輪の金メダリストは史上初、また23歳での受賞は個人最年少となった。

 


2018年世界選手権ショートでは、3位発進となる94.87点と、トップのネイサン・チェンと12.53点も離される厳しい結果となった。逆転を狙ったフリーでは、今季は2度目の成功となる4回転ループを決め、3.45点の加点を獲得。4回転トウループは加点3.8点を、4回転トウループ - トリプルアクセルも決め3.12点の加点を獲得。ステップはレベル3となり、合計206.10をマークした。新採点方式で初めてフリーで200点を越えた最初の選手となった。トータルでは最高得点記録となる300.97点を獲得し、新採点方式で300点を超えた最初の選手となりパーソナルベストを更新。

 


しかし、その直後に滑走したネイサン・チェンが高難度ジャンプを組み込んだ圧巻の演技を披露し、合計323.42点と世界最高得点を更新し優勝した。日本代表選手で唯一のメダル獲得者となった羽生は銀メダルとなり、来季の世界選手権3枠獲得を自ら死守した。

 

 

2022年北京オリンピックに出場。

《COVID-19》の影響によリ、バブル方式が採用された。

今大会、羽生自身の意向によりオーサーコーチはリンクサイドに立たないと発表された。

SPは、リンクの穴にはまる不運があり、冒頭の4回転サルコウがシングルになった。

その後は4回転‐3回転の2連続トウループは、出来栄え点4.07点(GOE)を獲得、トリプルアクセルは着氷、しっかり演じきり95.15点の8位で終え、演技後には「はまった」と口にしフリー頑張りますと語った。

フリーは、冒頭に挑んだ4回転アクセル(クワッドアクセル)は回転不足、転倒で大幅減点となり、続く4回転サルコウも4分の1回転不足で転倒したが、後半で4回転トウループ+3回転のコンビネーションジャンプと4回転トウループ+オイラー+3回転サルコウの3連続ジャンプを着実に成功させるなど、次第に立て直した。

公言通り、4回転アクセルの挑戦を貫きプライドを示した。

フリーは、188.06点を記録し3位と巻き返し、合計点283.21点の4位。

94年ぶりのオリンピック三連覇及び表彰台を逃した且つ、7年ぶりに国際大会の表彰台を逃した。

しかし、自身の幼い頃からの夢でもあった4回転アクセルは、基礎点がつき国際スケート連盟の公認大会で史上初めて4回転アクセル(クワッドアクセル)として認定された。