亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

高皇産霊神社(たかむすびじんじゃ)

2011-09-10 | 神社巡り

ここは野々市町押野である。

P1000190

       高皇産霊神社裏側から

お寺を思わせる大きな建物である。

今は野々市町になっているが昔は押野村と言って一時は金沢市に編入されたが、住民の中で金沢市は嫌じゃと言う人が多くいて1957年(昭和32年)3月住民投票をした結果旧押野村の約3分の2が野々市町と合併した。

Web

 正面にはたいそう立派な鳥居がたっていた

押野村は金沢市に編入されると村人達の意見は多勢に無勢で意見が通らなくなることに嫌気がさしたのでしょう。

今の野々市町も金沢市との合併が長い事囁かれていたが、実現しなかったのもその性だろう。今は野々市も5万人を越えて市制を敷ける人工に達し、今年の11月に野々市市が誕生する事になっている。

Web_2

        見事な拝殿です

高皇産霊神社(たかむすびじんじゃ)沿革

霊峰白山を源とする手取川の支流木呂川の清流に恵まれ、押野には周辺の何処よりも早く人々が居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から4千年前の縄文式土器群が、大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野壮地頭富樫家善の館が建ち、大野壮湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。

押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期には多聞天社・国常立社・比社と改められている。明治期には旧高皇産霊神社と清水神社の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治44年に建立したものである。

祭神 高皇産霊尊

押野山王社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(現座に野押野霊園辺り)の国常立社を合併したとみられる。

清水社 祭神 天照大神

比神社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村民が「宮前」姓名乗る由来となった。

 押野住民の十村役後藤太兵衛(1614~1673)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ36万人が動員された。江戸初期の野田山や野田山麓は、持ち主の定まらない山地であったが、江戸中期に村々の飛地に細分化されたことなどを示す絵図がある。

これらは、長坂用水等の開発に従事した村々へ、動員数に応じて分譲が行われたものと考えられ、同図の三小牛地区に、押野の飛地として押野山が描かれている。

清水神社の旧高皇産霊神社に改称することの許可を得た氏子の村民は、明治43年10月に共有地の押野山を売却した。その売却益と村民からの浄財とを合わせて建設費とし、新設したのが現在の高皇産霊神社であり、敷地は、後藤於莬吉氏が寄進した。村内の融和を図るため、社殿を集落の東側に置く代わりに、向きを西にしたことが伝わる。新築工事は同年末から開始し、明治44年8月18日に盛大に竣慶賀祭を挙行した。

壮厳な現社殿は、押野地区が幾星霜を重ねて歩んだ歴史の象徴であり、長坂用水開発等に従事した押野村民の労苦の結晶でもある。

平静の大改修を完了したのを機に、町内の和平と安寧を祈念しつつ、ここに改めて神社沿革碑を建立して永く後世に伝え残すこととする。

                                                                      当社石碑より

Photo

何故か境内に立派な石橋がある。川でも流れているのか。

隣の立派な建物は社務所。

立派な石碑があった。

         関脇 響升顕彰碑

 東京相撲東関脇響升市太郎傳

 

 

文久3年(863年)押野村に生まれ、のち清水を姓とした、幼少より体力人にすぐるを以って角界に入らんと志し、京都に出で鯨波光吉の門下となり 響松と名のる 次いで明治13年東京に出て伊勢の浜右衛の門に入ったのは15歳であった 同15年序の口となり 同18年に響升と改名した。

明治22年5月24才で西方前頭十枚目に入幕し、翌23年5月東小結となり同25年6月東方関脇に昇進し 同32年五月引退した

身長172㎝ 体重114kg 相手の胸に右手を当て、押し切るを得意とした 又乗馬を好み打聶乘・名人として 有名であった 

明治36年5月38歳のときに横浜で罹病し、惜まれながら鬼籍の人となる。

響升一太郎歿後押野村の有志並びに・消防組の奔走により顕彰碑を建立したが、多年の風雪により損傷はなはだしきを嘆き、同押野地域有志相協力し、並に復興するを得たのである。

吾が郷土出身の先覚をたたえ・之を後世に遺して町民の誇りとする。

   昭和47年8月(1972)

野々市町長 中島栄治 撰文並書

と裏に書いてある。

Photo_2

旧石碑はすぐ隣にあるが、裏の説明文の部分がごっそり無くなっている。

Photo_3

手水所の龍さんは何故か網を被っている。

見慣れない社紋が並んでいる。

 

平成20年に瓦の葺き替えをしたらしい、その時に降ろした鬼瓦だそうです。

こんな大きなものが屋根に乗っていたのだ。

  

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ネパール(高砂大学) | トップ | 荒川静香の講演を見に行って »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
 「困ったときの神頼み」という罰当たりな私は、... (オールドレディー)
2011-09-11 09:46:56
 「困ったときの神頼み」という罰当たりな私は、神社仏閣に興味を抱く、神仏を崇拝する精神が欠けているように思います。
 ツアーで古寺を訪れても、おみくじを買って、手を合わせて通り過ぎるだけ、これではいい運勢にめぐり合うことなどありえない、いつか神仏の手痛い罰が下されるという不安を感じることがあります。

 神仏崇拝の精神が培われるかどうかは、家に仏壇や神棚があるかないか、その影響大きいと思います。
 小さいときから神仏の前で手を合わせる習慣は大事だと思いますね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

神社巡り」カテゴリの最新記事