元禄時代の赤穂浪士の仇討ち「忠臣蔵」有名だが、子供の頃その意味が分からなかった。
「蔵」が付くから何処かの蔵の名前だろうぐらいにしか思っていなかった。
ある日、金沢東別院で菊人形の展示があった。
そこで、「忠臣蔵」と書かれた勇ましい侍の菊の衣装を纏った人形を見て初めてお芝居の題名だと理解した。
それから、どれだけ聞かされただろうか。
大河ドラマでも嫌になるほど見せられた。
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そして、明治の初め、それに似た?忠義による仇討ち事件が加賀藩にも起きた。殺されたのは殿は殿でも、藩主ではなく、加賀藩八家の出頭を勤める本多政均(まさちか)。
事の起こりは1869(明治2)年8月。金沢城二の丸御殿で、金沢藩執政(藩臣の最高職)の本多政均が暗殺された。テロの実行犯は下級藩士2人。廊下でじっと息を潜め、白昼堂々行われた凶行だった。
「西洋かぶれ」だった。西欧文化を積極的に導入し、藩の近代化を推し進めようとした政均の改革は、時代の急激な変化についていけない藩士の不満のはけ口にされてしまったのだ。
14代藩主(金沢藩知事)前田慶寧(よしやす)は黙っていなかった。犯行の翌日、政均の改革は自分の意に沿うものだと強調した上で、「今後は心得違いをすることのないよう、一同に強く申し諭しておく」と家臣に命じたのである。
事件から1年半後、実行犯の2人は処刑されたが、共犯者は多くが軽い処分で済んだ。これ以上、事を荒立てて、藩内の対立をあおりたくないという上層部の意向が働いたのであろう。
これで納まらないのは、主を殺された本多家の家臣たちだった。無念を晴らそうと立ち上がった15人は、暗殺計画に関与した藩士を突き止めると、自宅や通勤途中、出張先へ押しかけ、3人を討ち果たした。仇討ちに加わった15人のうち12人は翌明治5年、切腹を命じられた。新生日本社会に与えた影響は大きく、政府はすぐさま「仇討ち禁止令」を出し、全時代的な風習の一掃を図ったのである。~北國新聞より
大乗寺
金沢の南部に大乗寺山という所がある。すぐ隣が前田家の歴代お殿様が眠る野田山がある。
ここも本来なら野田山の一角、大乗寺というお寺があるから大乗寺山というのだろう。
もと旧市内にあったお寺を本多家によって野田山墓所の隣にある当地に移された。曹洞宗のお寺で能登の総持寺、福井の永平寺と同格のお寺である。
日本最後の仇討ち12義士の墓
その大乗寺の境内に入ってすぐ左側にこの石碑がある。
12人の義士の墓が並んでいる。一つ一つの墓にはそれぞれ義士の謂われが書き込まれているが崩書なので読めない。
本多家墓地入口
すぐ奥には、立派な本多家の墓がある。
さすが加賀藩執政(藩臣の最高職)だけあって広い。
本多町(金沢城から)
中央に見えるのが20世紀美術館。この辺りに本多家のお屋敷が有ったらしい。
本多家の家来は本多家当主をお殿様と仰ぎ、お城には登城させてもらえなかったようだ。従って藩主は彼等にとっては雲の上のお人という存在である。
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日本最後の仇討ちとは全国いたるところにあるようで、どんな基準で最後と決めているのだろうか。
ここは明治6年2月の仇討ち禁止令の直前だったからだろうか。