町会の神輿は終わったのですが、神田明神鳥居前の甘酒屋『天野屋』の神輿が登場しました。
江戸の昔より明神甘酒として、天下に知られているのが、神田明神鳥居前の、この店、『天野屋』です。天野屋は弘化3年の創業で、濁酒の製造をはじめた初代が後に、糀、甘酒、納豆、味噌の製造も兼ねるようになりました。
米こうじを作る地下の天然むろは創業当時のままとなっています。隣接している喫茶室も趣いっぱいです。是非、本物の甘酒をご堪能下さい。
「富士山に肩をならべる甘酒屋」と俳句にもある通り、江戸時代に入って甘酒は多くの人々に愛好せられましたが特に、その製造に当って当店のものは、「明神甘酒」の名称のもとに広く皆様方の御愛顧をつないでいるものであります
甘酒の他にも、天野屋特製の、江戸味噌、久方味噌、柴崎納豆なども人気です。
東日本橋二丁目町会の神輿が町会最後の神輿となります。
旧来の両国とよんだ町です。元柳町、新柳町、吉川町、米沢町、1、2、3丁目、薬研堀町、若松町など、全部または一部が含まれます。明暦大火後の万治2年(1659年)に橋がかかり、交通上繁華な地になりました。火事の多い江戸に鑑みて二度と災害の悲劇をくりかえさぬ様にと各所に火除地を設けたのですが、両国にも中央区側に広小路が出来て、防火や避難に役立つ広場が設けられました。いつの間にかこの空地を利用して小屋がけで軽業や見世物小屋が並び、水茶屋、喰べ物見世、揚弓場などで江戸一番の賑やかな場所になっていきました。
維新後は商店の並ぶ繁華な市街に変わって、面目一新した賑やかな商店街になっていったのです。
また米沢町は3町に分れ、多くは船宿の中心地で、両国の川開きや花火と共に忘れることの出来ない町で、船宿はいずれも二階があり、家人は階下に住み、客がくると2階に通して接待したといいます。
米沢町から元柳町にかけて船宿と共に有名な柳橋花街で、これが両国の景況を明治になって支えていたといえます。
町会の該当区域は、東日本橋二丁目全域となっています。
江戸神社に続きましては日本橋四地区の神輿宮入りです。一つめは東日本橋三丁目橘町会です。
古くは橘町とよばれた地域で、昭和46年の住居表示実施で現町名になったところです。江戸の初期には西本願寺の別院やその末寺があったところでした。この西本願寺別院は元和7年(1621年)3月准如上人が創建したもので、江戸海岸御坊、更には浜町御坊とよばれたといいます。明暦の大火で堂宇は灰燼に帰し、築地に移転復興したのです。
その跡地は松平越前守の邸地となり、天和3年(1683年)の邸地移転に伴って、町地になりました。西本願寺のあった頃、門前に立花を売る店が多かったので、町の名を橘町とつけたのだそうです。
当町会は繊維関係の問屋が多く、今でも着物が似合う粋な旦那衆が町会を支えています。
町会の該当区域は、東日本橋三丁目全域となっています。