神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

神田須田町二丁目町会

2005-05-15 16:05:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

083
084

 神田須田町二丁目町会が宮入りしてまいりました。

 現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。大正12年(1923年)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、小柳町、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

 関東大震災から22年後の昭和20年3月の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができた、といわれています。

 戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業(なりわい)とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。現在、この地域には衣料関係の会社が多く集まっています。
 
 昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森(やなぎもり)神社・下谷(したや)神社の氏子(うじこ)が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、お祭りの他、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続ける町会です。

 町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。


鍛冶町一丁目町会

2005-05-15 15:58:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

081
082

 鍛冶町一丁目町会の宮入りです。鍛冶町一丁目町会で40町会目になります。

 鍛冶屋町は、慶長8年(1603年)の市街地造成の際につくられた町屋です。 ちなみに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった高井伊織(たかいいおり)が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来するとされます。多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物をはじめとして、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

 鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活をささえ続けた町でした。

 昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、塗師町の一部、千代田町の一部、西今川町、西福田町の一部、南乗物町の五ヶ町を一つとした「鍛冶町一丁目」が生まれました。

 町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。


北乗物町町会

2005-05-15 15:50:00 | 神輿(神田駅東地区連合)

079
080

 続きまして、神田駅東地区連合の宮入りが始まります。トップバッターは北乗物町町会です。

 北乗物町は、明治2年(1869年)に、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)、兵庫屋敷代地(ひょうごやしきだいち)、神田紺屋町二丁目横町代地(かんだこんやちょうにちょうめよこちょうだいち)が合併して成立しました。この時に、「北乗物町」と名付けられました。北乗物町は鍛冶町一丁目(かじちょういっちょうめ)の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。 

 この辺りは、江戸時代の初期に開けた地で、当時の市街地造成の方針によって、職業別に職人が集まり町となっていきました。この土地も、当時の駕篭などの乗物を作る職人が集まって居住したために生まれた地名である、と言われています。

 元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して付けられました。「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。

 町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。



多町一丁目町会

2005-05-15 15:35:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

077
078

 さぁ、とうとう中神田十三ヶ町連合の最後となりました。多町一丁目町会の宮入りです。

 田町一丁目は江戸時代は、神田堅大工町(かんだたてだいくちょう)とよばれ、大工職・左官職・屋根屋等の職人が多く住む町であった、といわれています。また江戸名物と言われた「纏屋治郎右衛門(まといやじろうえもん) 」の店があり、江戸でただ一軒の纏屋でありました。町火消しの旗印たる「纏」はいずれもこの店で造ったものであり、「いろは」四十七組はもとより、他の地方の分までも一手に手掛け、その名は広く知れ渡っていた、といわれています。
 
 町会の道路下には、東京都指定史跡である「神田下水」が埋設されています。この下水は明治17年に、一般市民の衛生や都市環境を改善する目的に、近代工学に基づいて建設された我が国初の近代下水道と、いわれています。その構造は現在の下水道管とは異なり、レンガで積まれ強固に築かれています。
 
 町会の該当区域は内神田三丁目7、12~14、17、18、22、23番地となっています。



旭町町会

2005-05-15 15:27:00 | 神輿(中神田十三ヶ町連合)

075
076

 旭町町会の宮入りです。

 江戸時代、この辺りは出羽(でわ)秋田藩藩主佐竹義宣(さたけよしのぶ)及び能楽師幸若太夫(こうわかだゆう)の屋敷地でした。天和(てんな) 2年(1682年)の大火でこの付近一帯が焼失した後、佐竹氏は下谷(現台東区)三味線掘(したやしゃみせんぼり)に移転し、跡地は町人地となり、永富町(ながとみちょう)二~四丁目、新革屋町代地(しんかわやちょうだいち)、元乗物町代地(もとのりものちょうだいち)の一部となりました。明治2年(1869年)、これらの地域は「旭町」と改名されました。 「旭町」の由来は佐竹氏の家紋「扇に日の丸」に因んでいる、といわれています。

 町内にある『佐竹稲荷神社』は寛永12年(1635年)に江戸佐竹候藩邸内の創建と伝えられ、同町の鎮護の神として丑寅の一隅に安置されていましたが、大震災後の区画整理の際に現在地(内神田三丁目10番地)に移されました。

 昭和41年に住居表示が実施されると、内神田二丁目(うちかんだにちょうめ)と三丁目(さんちょうめ)の一部となり、旭町の名前は地図から消えてしまいましたが、昔を語り継ぐように町会の名前として今でも存続しています。

 町会の該当区域は内神田二丁目8、9、13、14、16番地、内神田三丁目5、6、8~11、15、16、24番地となっています。