神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

東神田三丁目町会

2009-05-10 16:58:22 | 平成21年 神田祭
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南に神田川をのぞむ東神田三丁目は、かつて神田八名川町、神田元久右衛門町、神田餌鳥町、神田向柳原町一丁目に分かれていました。

江戸時代からのこれらの町の名前は、明治5年に正式な町名となり、向柳原町は、浅草区へ編入し、後に一部が神田区へ戻り、神田向柳原町一丁目となりました。

昭和42年、住居表示の実施により町名が大きく変わることになりました。
この時に、案として出された「秋葉原」や「秋葉」の名前に満足できなかった町の人たちは、要望書を提出して「神田」の二文字を残すことにしました。

こうして東神田三丁目という名前に変わったと言われています。

町会の該当区域は、東神田三丁目全域となっています。


光り輝く神輿に御注目下さい。
当町会の神輿は神輿師の製作ではなく、宮大工により造られました。
総勢300名での宮入となります。



神田須田町二丁目町会

2009-05-10 16:48:45 | 平成21年 神田祭
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現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和8年になります。
大正12年(1923)の震災復興の区画整理の際に、「元柳原町、柳町、柳原河岸、小柳町、平永町など」の町が合併され、いまの町の区域が定められました。

昭和20年2月22日と3月10日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされましたが、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができたと言われています。

昔から祭り好きの人たちがとても多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。

今でもこの須田町に住む人々は、お祭り以外にも、様々な町内イベントを行っており、伝統・文化を守り続けていく町会です。

町会の該当区域は、須田町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和13年、神田の宮惣で作られました。
大きさは2尺3寸になります。
黒漆屋根に3つの屋根紋が入り、胴が絞られた美しく、バランスの良い神輿です。
約500名の担ぎ手で宮入を行います。



鍛冶町一丁目町会

2009-05-10 16:41:43 | 平成21年 神田祭
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町名の由来は鍛冶町二丁目と同様です。

多くの鍛冶師、鋳物師、釜師などが集まって築城用金物【かなもの】をはじめとし、建築用金具、鐘、鍋、釜などを製造する一大工業地帯となっていました。

鍛冶町は、江戸時代の武士や庶民にとって必要不可欠な金属製品を提供し、日常生活を支え続けた町でした。

昭和8年、震災復興の区画整理の際に町名変更が実施され、南乗物町等5つの町を一つとした「鍛冶町一丁目」が誕生しました。

町会の該当区域は、鍛冶町一丁目全域となっています。


当町会の神輿は神田明神の氏子町会の中で、数少ない入母屋造りの神輿の一つです。
総勢300名の担ぎ手により宮入を行います。
秋葉原電気街での神輿振りは必見です。



鍛冶町二丁目町会

2009-05-10 16:22:24 | 平成21年 神田祭
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鍛冶町は、慶長8年(1603)の市街地造成の際につくられた町屋です。

因みに「鍛冶」という名は、町が生まれた当初、江戸幕府お抱えの鍛冶方棟梁だった高井 伊織が、この地を幕府より拝領して屋敷を構えたことに由来すると言われています。

多くの鍛冶師 、鋳物師 、釜師などが集まった土地であった事に因んで、名付けられました。

ここ、二丁目界隈は金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴です。

昭和8年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、鍛冶町二丁目等が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。昭和22年、麹町区と神田区の合併により千代田区神田鍛冶町二丁目となり、更に昭和49年に神田の文字が無くなりました。

近代科学の大先覚者、平賀源内が29才で初めて江戸に出て家を持ったのがこの町であり、生涯を通して最も長く住んだ町であると言われています。

この町会には「良薬にして口に甘し」の浅田飴があります。明治30年からずっとこの地で営業を続けています。元は江戸末期から明治初期にかけて活躍した漢方医の浅田 宗伯処方の「御薬さらし水飴」を「浅田飴」と改め、売り出したのが始まりです。
 
町内の該当区域は鍛冶町二丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和9年、神田神社の再興に伴う祭礼に併せて、宮大工の手により作られました。
大きさは、台輪寸法2尺6寸です。総 欅作りの傑作の神輿です。
現在は、神田神社神輿庫一番庫に収納されています。



北乗物町町会

2009-05-10 16:13:47 | 平成21年 神田祭
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北乗物町は、明治2年(1869)に、元乗物町代地、兵庫屋敷代地、神田紺屋町二丁目横町代地が合併して成立しました。
成立時、この地に多くの駕篭職人が入居しました。
町名を付けるにあたり、かつて駕篭職人が多く住んだ地を乗物町と読んだことから乗物町となったと言われています。
当時、今川橋の付近に南乗物町が有り、そこより北に位置するため、「北乗物町」と名付けられました。
明治の中頃には、酒類製造所という大看板が下がっている大きな居酒屋があり、多くの労働者で大変賑わっていたそうです。
北乗物町は鍛冶町一丁目の中央を東西に走る道筋の北側にできた片側町でした。 

元乗物町の「元」は日本橋の「新乗物町」に対して名付けられました。
「兵庫屋敷」は兵庫殿という御女中が拝領した屋敷である、と言われています。

町会の該当区域は、北乗物町全域となっています。


当町会は氏子町会で唯一の獅子頭太鼓山車での宮入です。
昭和29年に作成された、獅子頭を戴く太鼓山車です。
雄、雌の獅子頭だけを取り外し、神輿として担ぐことも出来ます。その美しさにご注目ください。
今回、「紺屋町南町会」の皆様の協力を得て宮入をします。子供たちの元気な声と、「北乗物町」「紺屋町南」の2種類の半纏をお楽しみください!!