神田祭.ch公式ブログ

神田祭公式ブログです。当日の神田祭の実況や神田祭の裏側、インターネットchの「神田祭.ch」の模様をお伝えいたします。

東日本橋三丁目橘町会

2009-05-10 18:49:02 | 平成21年 神田祭
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東日本橋三丁目橘町会は古くは橘町と呼ばれた地域で、昭和46年の住居表示実施で現町名になりました。
江戸の初期には西本願寺の別院やその末寺がありました。
この西本願寺別院は元和7年(1621)3月准如上人が創建したもので、江戸海岸御坊、と呼ばれたと言います。
明暦の大火で、お堂の建物は延焼し跡形もなくなり、築地に移転復興しました。

その跡地は松平越前守の邸地となり、天和3年(1683)の邸地移転に伴って、町地になりました。
西本願寺のあった頃、門前に立花を売る店が多かったので、町の名を橘町と付けたと言われています。

当町会は繊維関係の問屋が多く、今でも着物が似合う粋な旦那衆が町会を支えています。

町会の該当区域は、東日本橋三丁目全域となっています。


当町会の神輿は、昭和42年に新たに町会有志にて寄贈されたものです。
紺に染め抜いた青伴天の青年部とグレーの伴天の一般担ぎ衆、総勢150名により宮入を行います。



江戸神社奉賛会(旧神田市場)

2009-05-10 18:25:14 | 平成21年 神田祭
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江戸神社 奉賛会は旧神田市場の関係者で構成されています。

江戸神社は、江戸最古の神社で永く神田多町に青果市場があった江戸時代から市場関係者の間で守られてきた神社です。市場が秋葉原から平成元年に大田に移転してからも今日に続いています。

現在、神田神社の摂社として境内のお社にお神輿が祀られています。


当神社の神輿は「青果市場の神輿」、「神田市場の千貫神輿」と呼ばれ、約200人で担がれる大神輿です。
戦後昭和33年、当時の技術を結集して浅草小鳥町 神輿師 鹿野喜平が製作しました。他に類を見ない金物関係は大阪造幣局にいた名錺師阿部 長次郎が新しい意匠に基づき作成しました。NHKのTV、本の「美の壺」にも紹介された神輿の《静》の美しさと特に、宮入の時の《動》の華やかな姿を是非ご覧ください。



神田和泉町町会

2009-05-10 17:44:00 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈には、伊勢国津藩(現在の三重県津市)藤堂家の上屋敷、出羽国鶴岡藩(現在の山形県鶴岡市)酒井家の中屋敷などがありました。
町名の「和泉町」とは藤堂家が代々、和泉守を名乗ったことに因んでいます。

大正12年(1923)の関東大震災で町は、町民の防火活動によって火災を免れました。
このことは、世の奇跡として市民の賞賛を受けました。
そのため、この神田和泉町を含む一帯は、昭和14年1月に、東京府より「関東大震災協力防火の地」として顕彰され記念碑が建てられました。

町会の該当区域は、和泉町全域となっています。


当町会の神輿は秋葉原地区では一番の大きさを誇ります。
その大きさたるや、2尺5寸、重さは500キロにも達します!
当町会を愛して止まない担ぎ手350~400人で宮入を行います。
必見ポイントは社殿前です。
前に進もうとする担ぎ手衆と、それを押さえようとする、町会青年部との間の攻め技合いです。
是非ご堪能ください。



佐久間町三丁目町会

2009-05-10 17:24:57 | 平成21年 神田祭
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江戸時代、この界隈には町人地と武家の屋敷地とが混在していました。
「佐久間町」の名前の由来は、佐久間平八という材木商が住んでいたことに由来します。

由来版が立っている佐久間公園は、ラジオ体操の発祥の地としても知られています。
「国民保険体操のラジオ放送(のちのラジオ体操)」が開始されて間もなく、昭和5年に万世橋警察署の巡査が地域の住民を集め、全国に先がけてこの公園で早起きラジオ体操を始めました。
これを記念して同公園には由来を記した石碑が建立されました。

大正12年の関東大震災時、神田川南岸まで火の手が来ていましたが、町内の人々が力を合わせてバケツリレーをし延焼を免れました。
その功績を称え「町内協力防災守護之地」として史跡に指定されました。

町会の該当区域は、佐久間三丁目、佐久間河岸59~78号地となっています。


当町会の神輿は、昭和32年に後藤 直光の手により生み落とされました。
宮入り前、鳥居前において今年も元気いっぱいの踊りを行いました。



神田佐久二平河町会

2009-05-10 17:24:08 | 平成21年 神田祭
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この界隈は、江戸時代の早い時期から商人や職人が集まる町でした。
「佐久」という名前は、佐久間 平八という材木商が住んでいたことから生まれました。
江戸時代初期の慶長年間(1596~1615)に、江戸城築城のための材木を供給したのも佐久間町でした。
古くから幕府に仕えた町ということで、将軍家に祝い事があるときは、町人たちにも能の見学が許されていたといいます。

江戸時代から続いた神田佐久間町二丁目は、たび重なる火災で町が南北に分断されていましたが、明治2年(1869)にその間の武家地を編入し、明治44年(1911)、神田を取って佐久間町二丁目と改称しました。
しかし昭和22年には、その名を神田佐久間町二丁目に再び戻しました。

一方、神田平河町も、防災と深い関わりを持った町です。
享保12年(1727)、防火のため、麹町平河町一丁目が火除地に設けられました。
そこに住んでいた人々のための代地が神田佐久間町の隣に置かれ、麹町平河町一丁目代地と呼ばれました。
その後、明治2年に神田平河町、明治44年には平河町と名を変え、昭和22年、ふたたび神田平河町と改名しました。
昭和28年に、佐久間二丁目と神田平河町が合併、名称を佐久二平河町会として発足し、現在は神田佐久二平河町会となりました。

町会の該当区域は、佐久間二丁目、神田平河町、佐久間河岸45~55番地となっています。


当町会の神輿は昭和27年に名工、後藤 直光により製作され、一本彫りの繊細な彫刻が特徴であり、一昨年修復されました。
是非ご注目ください。