こんにちは。先日,千葉県の成田市に御鎮座されます麻賀多神社へ参拝させて頂きました。御存知の方も多いと思います。麻賀多神社は,あの日月神示「ひふみ神示」が降ろされた天日津久神社があるところです。その帰り,隣の茨城県に仕事の用事があったので自動車で向かっている途中,阿見町と云うところを通過したときにあることを思い出していました。それは,2008年頃から研究していた神風特別攻撃隊「特攻隊」についてでした。この茨城県にある阿見町には,特攻隊への入隊を前提とされていた14歳から17歳までの若い人たちで構成された予科練があった場所です。私の大叔父も予科練から特攻隊へ入隊し,出撃の数日前に終戦を迎えました。今日と明日と明後日の3日間は,ただ純粋に国の為に朝夕と厳しい訓練に励んでいた予科練習生,愛する国と故郷,家族の為に尊い命を捧げた特攻隊員,そして,本土決戦で激戦地となった沖縄ひめゆり学徒隊を記事にさせて頂きます。いよいよ明後日,8月15日は71回目の終戦祈念日を迎えます。いま私たちに出来ることは,後世に伝え残すことだと考えます。
過去の関連記事です。「あなたは神風特別攻撃隊を知っていますか?」宜しければ,お読みください。
先ずは,下記の予科練から神風特攻隊として出撃される前にお母さんへ向けた遺言書をご覧ください。
僕はもう,お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。
お母さん,良く顔を見せて下さい。
しかし,僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを
泣かせるからです。
お母さん,僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕のあいさつです。母上様。
(資料出処:予科練平和記念館)
この遺言は,予科練から特攻隊へ入隊し,昭和25年5月4日に弱冠19歳と云う若さで,特攻作戦のため出撃され沖縄で特攻戦死された福島県出身の茂木少尉が大好きな母上様に宛てた最後の御手紙であります。
上の画像は,知覧特攻平和会館に所蔵されている,燃えさかる特攻機から6体の天女が特攻隊員を救い出し,昇天の様子を描写させた画です。目で見ると確かにこの画像は,作者の鎮魂の祈りが描写させて描かせたものですが,この画のとおりのことが実際に起こっておりました。日本神界の神々様から仏界におられる菩薩様も総出で戦禍に赴いた御霊の救出と昇天をさせておりました。きっと,この画を描写した作者には,後世に伝えるために神懸りにより筆を取らせて描かせたものです。
それでは,予科練について記事にさせて頂きますが,予科練を語る前に,特攻について少し書かせて頂きます。特攻隊には幾つかの部隊が存在しておりました。陸軍や海軍に所属し,予科練はその内,海軍に所属する「海軍飛行予科練習生」のことを通称:予科練と呼んでいます。特攻隊員の多くは予科練の所謂,卒業生で卒業後はほとんどの少年が特攻隊へ入隊しています。14歳から17歳ですから中学2年生から高校2年生の未だ未成年の子供たちであります。これが少年特攻と言われる所以です。今とは想像もつかないと思いますが,これが現実でありました。特攻隊員は18歳以上の若者が出撃されたと云う風習になっていますが,私が研究している課程で元特攻隊員の方とメールですがやり取りさせて頂いた際に,17歳未満の特攻隊員も存在していたと話されていました。
いまの若い世代の人は,特攻や特攻隊と云う言葉すら聞いたことがないかも知れませんが,私たちのすぐ近くの御先祖様です。この特攻と言う言葉は,特別攻撃の略称で,航空機や水上・水中兵器に爆弾を搭載して,当初から死を持って敵戦艦に体当たりして撃破するという攻撃です。つまり,はじめから死を覚悟して出撃するのです。本格的に特攻隊が部隊として編成されたのは,昭和19年(1944年)の10月です。特攻隊員13名が志願により選出され,第一次神風特別攻撃隊としてそれぞれ4部隊が結成されました。最初の特攻攻撃の戦果が確認されたのが10月25日でした。
しかしながら,私も研究をしていて実は,特攻一番機の前に伝説となった「特攻ゼロ号」が存在していたことが判りました。敵がいなければレイテへ行きますと言って飛び立った伝説の英霊です。正式に大本営にて特攻したのかどうかの確認が出来ていないために,伝説の特攻ゼロ号と呼ばれるようになったのです。また次の機会で記事にさせて頂きたいと思います。
毎度のように話が少し逸れますが,アメリカの9.11の悲惨な出来事をまるで日本の特攻隊のようだとマスコミがニュースなどでコメントしていたり,第2の真珠湾などと言っていたりしていましたが,これはとんでもないことです。9.11のテロリストと我が国の特攻隊の御魂を一緒にするような発言は無礼にもほどがあると思います。私たちの御先祖様と一緒にしないで下さい。おじいちゃんたちの悪口を言わないで下さい。今度,悪口を言っているのを聞いたら閻魔大王と不動明王に言いつけます。
話を戻しますが,予科練は,海軍飛行予科練習生で年齢は14歳から17歳の即ち,少年航空兵のことであります。この制度が出来たのが,昭和5年6月1日で,第1期生79名でした。当初は,横須賀海軍航空隊に予科練習部を設置し,その後,全国から5,800名の志願者から厳選され昭和14年3月には霞ヶ浦湖畔に移り,大東亜戦争が開戦すると航空兵の増員が急務となったのです。そして,予科練習生は優れた搭乗員としての人間形成と,厳しい訓練をものともせず,航空兵としての実力を身につけて行きました。さらにエピソードの1つとして,昭和12年8月14日,中国本土に孤立する居留民団(日本人)を救助するため,暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来,予科練を巣立った若人たちは多くの偉勲を重ね,大東亜戦争では名実ともに日本の航空戦力の中核となり戦ってきました。
しかし戦局は悪化の一途を辿り,敵が本土に迫った時,そのほとんどが神風特別攻撃隊員となって,一機一艦必殺の体当りを決行したのです。名も命をも惜しまず何のためらいもなく,ただ国を救うことのみに無限の未来を秘め祖国と家族を守るために尊い命を捧げたのであります。創設以来終戦までの予科練の歴史は僅か15年3ヶ月に過ぎません。しかしながら,祖国の繁栄と同胞の安泰を願い,たくさんの少年たちが全国から志願し,その予科練卒業生の8割が未曾有の国難に殉じ特攻による戦死をしたのです。私たちの今の生活があるのは,先の大戦で決死の覚悟で戦った英霊の御蔭であることは言うまでもありません。拝
予科練平和記念館公式ページ:http://www.yokaren-heiwa.jp/index.html
知覧特攻平和会館公式ページ:http://www.chiran-tokkou.jp/
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こころのみはしら「心柱」祝詞 (作)花咲 あさひ
互いに支え,助け合い,足りないところを補い続け,
共に手を取り,手を握り,互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合い,
如何なることにも先ずは感謝を。
謙虚さ忘れず頭を垂れて,自ら手を挙げ名乗り出る,真の勇気と素直さと。
時には省み反省し,人への奉仕を忘れずに,歓びもちて結びとすれば,怒りの心も鎮められん。
高天原(自分の心)にそびえる柱に,降ろせよ しかと神の音(波動)を。
神の音を柱に降ろし,言葉に変えて,実地に移し,日々の努力を忘れずに,人を活せど手柄になし。
たとえ独りになろうとも,神に仕えし喜びと,己を尊び誇りをもちて,こころのみはしら種を蒔き。
たとえ困難苦難に出会えども,ただ只管に自分を信じ,こころのみはしら(心柱)成長させん。
この御霊の奥の奥,神を宿す人の努めよ。
2017.12.31 前段部 完成
補足:前々日に富士山へ行った際に富士山の神さまの御心を自分の心にそびえる九つの柱に音(波動)を降ろして観ました。
そして,富士山の神さまの御心をブログのテーマに沿って未だ前段部ですが,祝詞を作成してみました。
後段部は,虹色「七色」の輝きを放つ白山の神さまのところで作成したいと思っています。いつになるか・・・。
大自然と観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝