犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

はなちゃん。

2015年04月02日 | おせわがかり日誌


どうしたのかな、と思っていたら。

そうだったの。

石田ゆり子さんちの花ちゃん。

ラブラドールの花ちゃん。

去年の4月1日に、お空に帰って行ったんだ。





だけど、

上手く言えないけれど、
私はなぜか、前より花を近くに感じます。
私の中に、花がいるのを、確信します。
不思議な感覚なのです。
寂しいけど、悲しいけど、でも、さみしくない。
嘘じゃありません、本当にそうなんです。




オレコと似ていると勝手に思って、

花ちゃんの写真日記、楽しみにしていた。

もう、写真日記は更新されないけど。

いつでも思い出したときに、

会いたくなった時に、

読んだらいいんだよね。

はなちゃんしりーず。



どうぶつとは(人間も)、生きてるものとは、

なにごとも予定通りというわけにはいかない。

順当にいけば、とか、普通は、とか、

そういうことは、いっさい関係がない。

ほんとうに、ごくごく勝手に、

お年寄りのこんちゃんよりも、

若いオレコのほうが長生きするだろう、

なんて、甘いわたしは思いがちだけれど、

じゅうぶん生きたね、と言えないような、

短い一生にならないとはいえない。

病気になったり、事故にあったり、

いろいろな可能性は、あるわけだから。



だから、まいにちまいにちが大事だし、

今日と同じ明日が来るように、

いつも一緒にいられるように、

ふたりをちゃんとお世話できるように、

自分自身も元気でいなくてはいけない。



犬と、ねこと、どうぶつと暮らすことは、どういうことなんだろう?

考えても「こうだから」と明白に説明することは、できないでいる。

ひとつだけわかるのは、やがて、このこたちが亡くなったときに、

落ち込んで悲しみ続けたり、もう二度と生きものとは暮らさない、と、

次つぎ心の扉を閉じて、ふさぎ込むためではないと思う。

その日は来るだろうし、悲しまないことなんてない。

でもそれは「全体」のうち、ほんの一部のことなのだ。

生きているとき、ともに過ごしているときに、

わかちあえたこと、寄り添ったこと、

私のぬくもりで、かれらの心が安らいだこと、

かれらのぬくもりで、私の心が安らいだこと、

小さなこと、ひとつひとつが、自分の一部になっている。

あのこたちの一部になっている。

これ「しあわせ」というのではないのだろうか。




「しあわせ」って「なる」んじゃなくて、

なんていうのかな、「感じる」ものなんだな。

だから石田ゆり子さんが、「さみしくない」という気持ち、わかるの。

多分、ほんとに、石田さんの心に、はなちゃんはいるんだね。

ちゃんと心にはなちゃんがいるから、

泣き続けるのではなく、ふさぎこむのではなく、

語りかけたり、一緒に笑ったり、してるんじゃないかと思うの。

それが、どうぶつと暮らすこと、

生き物と暮らすこと、の、醍醐味。

心通い合えば、自分の一部になる。

一方通行でなく、お互いに。

いつも一緒なんだもの、さみしくないよね。