どうしたのかな、と思っていたら。
そうだったの。
石田ゆり子さんちの花ちゃん。
ラブラドールの花ちゃん。
去年の4月1日に、お空に帰って行ったんだ。
そうだったの。
石田ゆり子さん|花のこと。 - ほぼ日刊イトイ新聞
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— にゃう子~ねこデザイにゃあ~ (@MYCROPGIFT) 2015, 4月 1
だけど、
上手く言えないけれど、
私はなぜか、前より花を近くに感じます。
私の中に、花がいるのを、確信します。
不思議な感覚なのです。
寂しいけど、悲しいけど、でも、さみしくない。
嘘じゃありません、本当にそうなんです。
上手く言えないけれど、
私はなぜか、前より花を近くに感じます。
私の中に、花がいるのを、確信します。
不思議な感覚なのです。
寂しいけど、悲しいけど、でも、さみしくない。
嘘じゃありません、本当にそうなんです。
オレコと似ていると勝手に思って、
花ちゃんの写真日記、楽しみにしていた。
もう、写真日記は更新されないけど。
いつでも思い出したときに、
会いたくなった時に、
読んだらいいんだよね。
はなちゃんしりーず。
どうぶつとは(人間も)、生きてるものとは、
なにごとも予定通りというわけにはいかない。
順当にいけば、とか、普通は、とか、
そういうことは、いっさい関係がない。
ほんとうに、ごくごく勝手に、
お年寄りのこんちゃんよりも、
若いオレコのほうが長生きするだろう、
なんて、甘いわたしは思いがちだけれど、
じゅうぶん生きたね、と言えないような、
短い一生にならないとはいえない。
病気になったり、事故にあったり、
いろいろな可能性は、あるわけだから。
だから、まいにちまいにちが大事だし、
今日と同じ明日が来るように、
いつも一緒にいられるように、
ふたりをちゃんとお世話できるように、
自分自身も元気でいなくてはいけない。
犬と、ねこと、どうぶつと暮らすことは、どういうことなんだろう?
考えても「こうだから」と明白に説明することは、できないでいる。
ひとつだけわかるのは、やがて、このこたちが亡くなったときに、
落ち込んで悲しみ続けたり、もう二度と生きものとは暮らさない、と、
次つぎ心の扉を閉じて、ふさぎ込むためではないと思う。
その日は来るだろうし、悲しまないことなんてない。
でもそれは「全体」のうち、ほんの一部のことなのだ。
生きているとき、ともに過ごしているときに、
わかちあえたこと、寄り添ったこと、
私のぬくもりで、かれらの心が安らいだこと、
かれらのぬくもりで、私の心が安らいだこと、
小さなこと、ひとつひとつが、自分の一部になっている。
あのこたちの一部になっている。
これ「しあわせ」というのではないのだろうか。
「しあわせ」って「なる」んじゃなくて、
なんていうのかな、「感じる」ものなんだな。
だから石田ゆり子さんが、「さみしくない」という気持ち、わかるの。
多分、ほんとに、石田さんの心に、はなちゃんはいるんだね。
ちゃんと心にはなちゃんがいるから、
泣き続けるのではなく、ふさぎこむのではなく、
語りかけたり、一緒に笑ったり、してるんじゃないかと思うの。
それが、どうぶつと暮らすこと、
生き物と暮らすこと、の、醍醐味。
心通い合えば、自分の一部になる。
一方通行でなく、お互いに。
いつも一緒なんだもの、さみしくないよね。