いや。犬猫だけでない。
コオロギ、バッタ、カブトエビ(カニだっけ田んぼにいるあれ)?、金魚、文鳥、いんこ、そしてすっぽんもどきとも暮らしたことがある。
あの子はいつも水槽の中からこちらをにこにこ見つめていて、
いってらっしゃいもおかえりなさいもいってくれる子だった。
とても素直で、かわいい子だった。
体が大きくなると知っていたけれど、
嫁入りにもついていく予定だった。
ところがある冬の日、サーモフィルターの故障で、
あっけなく、世を去ってしまったのだった。
のどもとにハートのマークがある、いつも機嫌がいい、なんだか不思議な子だった。
好きも嫌いもなく、あの子を見た人たちは、
みんなあの子に夢中になった。
生き物にわりと無関心な父でさえ、夢中になった。
帰ってくると鞄もおかずにまっすぐにあの子のもとへいく。
そしてじーっといつまでも見つめているのだ。
ゆらゆらと泳ぎながら、にこにこと、水槽の外にいるこちらを、
やさしく見つめ返す目に、誰もが何かを、感じていたのだろう。
これはあくまで、私にとっては、なのだが、
猫よりも、犬を育てるほうが数段難しかった。
猫は精神的にわりと自立しているし、
ある程度距離があるほうが、いい関係でいられることが多い。
というか、猫の好きにさせてあげるとうまくいく。
猫の好きにさせておくというのは、放っておく、ということも含まれる。
好きなところで眠って、好きなところで遊んで、好きなところで人を観察する。
そして時々は甘えて抱っこをせがむ。
なでろというからなでたのに、いやなところを触ると怒る。
だが一方で犬は。
もちろん犬にもよるのだが、どっちかというと犬は、
あまりにもほったらかしにされると、さびしさを募らせる生き物だ。
その存在をちょっと忘れると、すぐさましおれる花のようでもある。
うちでいうとオレコはもっともわかりやすいタイプだが、一見すると、
経験豊富な、なんでも割り切っていそうなこんちゃんですら、そうなのだ。
気を抜けないところがある。
犬を幸せにするには、犬ときちんと向き合い、
辛抱強く、付き合っていかないといけない。
それにはわりと時間が必要だし、体力も要求されるのだ。頭も使う。
年がら年中、犬にとって何がベストなのか、考えていないといけないからだ。
そしてこれが一番強く感じたことなんだけれど、
犬の生涯は、猫よりも『時計の針』がはやく進む。
(もちろん個体差はあるのだが健康な子の場合)
猫より老化が早いので、そのことへの対応が、わりと大変だったりする。
老犬はとてもかわいいけれど、
介護が必要になると、付き合いは決して楽ではないだろう。
(もちろん猫もそうなんだけれど)
だが犬は大きさがさまざまなので、その点では、猫より大変な部分がある。
あれは10年ほど前のことになるのだろうか。
桜が咲くころ、大きな公園に、2-3家族で花見に来ていた方たちがいて、
ころころと走り回る小さな犬を2匹つれて、不思議なことに、リヤカーを一台牽いていた。
なんだろうな、と見てみると、おむつを履いたゴールデンレトリーバーが寝ているのだった。
痩せた体、白濁したその目はもう多分、桜の花を識別することはできないのだろう。
かわいた鼻も、においをかぎとれないのかもしれない。
ぱっと見ただけでも、あと数日の命なのではないだろうか、と思うような、老衰ぶりだった。
そんな子を一緒に花見に連れてきていたのである。
ちょっとつらそうな光景だったけれど、しかし、リヤカーを牽く人も、
ほかの方がたも、一行の表情は、とても晴れ晴れとしていたのだった。
すれ違いざまに、具合が悪いのにかわいそう、と、心配する人もいた。
私も複雑な思いで見ていたのだけれど、今になって少し思うことがある。
あれはあれでよかったのだ。
きっとあの子はもう旅だって、この世にはいないだろう。
ひょっとするとあの家族はもしかしたら次の子を迎えているかもしれない。
また、笑ったり、泣いたりしているのだろう。そういうものだ。
あの子はきっと、犬の天国で、あの桜の思い出を大事にしているだろう。
からだはつらかったかもしれないが、みんなでお出かけをして、たくさん遊んだ公園をまわって、
春の気配を感じたあの日のことを、ずっと忘れずにいるだろう。
家族も春になるたび、桜を見るたび、あの日のこと、あの子との日々を思い出しているだろう。
雲の上と、地上とで、同じ思いをあたためているのだろう。
そしてこれは本当に不思議なことなんだけれど、
猫は、飼い主のもとに、自分の『気配』を残していく。
部屋の片隅にそっと置いていくのだ。
それは時々、飼い主の五感に届き、涙ぐんだり、ふっと笑わせてくれたりする。
そこにあの子がいるような気がして、心に小さな花が咲く。
これは生き物の中でも、猫だけの能力じゃないだろうか。
思いは残る。
旅立つ方にも、見送る方にも、思いだけは残る。
人もどうぶつも、あらゆる他者とは、思いによってつながっている。
過ごし方、別れ方、いろいろ違うところはあるが、心で手と手を結んでいるのだ。
生きているときにちゃんと向き合っていると、彼らのいのちが尽きて、
姿がなくなっても、本当にそう感じることがあるのだ。
ちょっとした違いはあるのだけれど。