満州国を立ち上げた日本陸軍はさらに北支に兵をすすめます。最大の目標は太原(タイユエン)です。太原は漢民族にとっては北方の騎馬民族から守る北方の拠点ともいえる重要なポイントです。日本軍は空軍力、機械化部隊(戦車など)を使い11月8日に陥落させたのです。
このときには新発田歩兵第16連隊も参加しました。満州国の濱江省の一面披(イーミィエンポー)から応急派遣の命令により、熱河省の承徳(チャンドウ)、山西省の天鎮(ティエンチェン)と陽高(ヤンガオ)を撃破して原平(ユアンピン)鎮で大損害を被りながらも太原の戦いに参加しております。
大局的には石原莞爾参謀本部第一部長は山西省を含む中国本土に戦面を拡大することには反対していました。しかし東條関東軍参謀長と第五師団長板垣征四郎中将は太原攻略に積極的でした。石原は関東軍はもっぱら北方で対ソ戦を準備すべきであると考えていました。
つまり満州国を確保して時間をかけて充実させ、そのリソースで世界最終決戦である、日米戦に備えるという彼の遠大な夢は敗れてしまいました。ここに我々は日本の歴史の転換点を見ることになります。
それでは絵葉書をご覧ください。前面に戦車を押し立てた日本軍が太原の城壁を突破しょうとしています。一部の城壁は崩れていますが、ここに砲火は集中しますので、突入すれば最も危険なスポットになります。
次の葉書は報道機関員の太原着任のご挨拶です。日付からすれば民国廿八年なので昭和14年です。かなり治安が維持されているようで、「東亜新秩序の建設」の文言が印象的です。支那事変の際中の報道機関の激しい報道合戦はまた別の種類の戦場でした。この件は改めてUpしたいと思います。
今回からは集めた古物で少し近現代史を語らせてみようとおもいます。