大正9年(1920年)の青分銅葉書でございます。この製糸場は下諏訪に多数ありました製糸場の中では最大級でありまして、河西寅吉の個人経営でありました。名前は入〇(入丸)製糸場で1921年(大正10)には釜数は841で,従業員は工女703,工男85人に上ったそうであります。
日本の戦前に外貨を稼いだ最大級の産業は製糸業(絹織物)でありましたが、その陰に倒れた若い女性も多数あり、嗚呼!野麦峠の世界があったのでございます。
大正9年(1920年)の青分銅葉書でございます。この製糸場は下諏訪に多数ありました製糸場の中では最大級でありまして、河西寅吉の個人経営でありました。名前は入〇(入丸)製糸場で1921年(大正10)には釜数は841で,従業員は工女703,工男85人に上ったそうであります。
日本の戦前に外貨を稼いだ最大級の産業は製糸業(絹織物)でありましたが、その陰に倒れた若い女性も多数あり、嗚呼!野麦峠の世界があったのでございます。