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#2022-01-26 20:31:27に記事にしましたが、最新の知見によって(注4)を追加して、朝鮮半島原始農業の図を一部修正しました。
#2021-03-11 23:09:43にこの記事を掲載しましたが、その後いい本が見つかり、重要なことが判明しましたので(注2)を追加します。最後までどうぞよろしくお願い致します。
日本人のルーツを考えるときには真っ先に、水田稲作がどこから来たのかが問題になります。水田稲作の文化を持った人々が列島に移住して拡がったのか、もともと日本列島に居た縄文人がどこからか運んで栽培されるようになったのかです。しかし、すでに水田稲作は紀元前四千年~前三千年の長江河口の人びとが始めたと知られています(注1)。Y染色体DNAの解析で現代日本人男性のルーツが、縄文系約40%、倭人(江南の呉人)系が約25%、そしてシナ人系約17%、殷(商)人系が約8%ですから、江南系の倭人(後に縄文人と混血して、共に倭人と呼ばれる)が、最初に北部九州に伝えた可能性があります。
現在日本最古の水稲耕作遺跡は佐賀県唐津市の西南部の菜畑遺跡(なばたけいせき)と知られています。Wikiによれば、この水田跡は弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)紀元前930年頃とあります(放射性炭素14の較正年代)。
韓半島への伝来は、『研究者の甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している[12]。』とあり(Wiki「稲作」より)、雑穀も混ざっているので恐らく陸稲だと思います。半島で発見された水田跡はさらに新しく、紀元前六世紀の松菊里遺跡などで見つかっている程度なので、先に日本に伝わってから半島南部に伝えられたのではないかという説があるわけです(注2)。(2022.1.26 赤字追加)
しかし、Wiki「倭・倭人関連の中国文献#『論衡』」によれば、以下の文献が見つかっています。
『論衡』倭人について、
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
とみえる。
周代は日本の縄文時代晩期から弥生時代前期にあたり、成王の在位は前1042年~前1021年とされるが、『論衡』自体は1世紀に書かれたものである。白雉は食用に、暢草(ちょうそう)は服用に、それぞれ供されたされたようで、暢草は酒に浸す薬草と思われていた。
「倭人が献じた鬯草(暢草)とは何か、周の成王の時。」によれば鬯草とは?
江上波夫氏は、
「鬯(ちょう)。黒黍(くろきび)を醸(かも)して酒と為す、鬯と曰(い)う。芳草を築き以て煮(に)る、鬱と曰う。鬱を以て鬯に合し、鬱鬯と為す。之(これ)に因(よ)りて草を鬱金(うっこん)と曰い、亦(また)鬯草と曰う」
この草は、中国の鬱林(うつりん)郡の名産の鬱金(うっこん)草だ、という解釈から、この「倭人」とは、鬱林郡に遠からぬ江南近辺に住んでいた種族だろう、と推定され、“そのあと、この種族が日本列島へ民族移動したのではないか”と続ける。「日本列島→中国本土」という、貢献ルートではないわけです(『続日本古代史の謎』朝日新聞社刊、所収講演)。
王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実であろう。とされています。
鬱林(うつりん)郡は唐代から民国初年にかけて、現在の広西チワン族自治区玉林市一帯に設置されたとあり、すでに紀元前十一世紀には倭人と呼ばれる人々が東アジアで盛んに活動していたことを示しています(注3)。
この江南出身の倭人(江南系倭人)によって北部九州にもたらされる水田稲作文化は直接日本列島に伝達されたと考えるよりも、下図に示すように長江河口から東へ海流に乗って済州島に到達し、北上して韓半島に渡るルートが考えられます。地理的に韓半島南部で日本列島よりも先に始められたと考えるのが自然です(注4)。
そして、紀元前十五世紀から始まる無文土器時代前期(前850年頃まで)の 『後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。』とあり(Wiki「無文土器時代」より)、江南系倭人が活発に活動する紀元前十一世紀ごろに、半島南部で水稲耕作が行われた可能性が高いと考えられます。上で述べた江南系の倭人がすでに半島に来ていた縄文人と混血して生まれた縄文系倭人(多分父が江南系で母が縄文人でしょう)で、どちらも倭人と呼ばれるようになったようです。
紀元前473年に呉が越に滅ぼされたとき、呉王族(周の先王古公亶父の長男太伯と次男虞仲が紀元前十一世紀ごろ江南で呉を興したと伝わっている)の一部が江南系倭人の手助けで半島南部(全羅南道か慶尚南道か)に逃亡し、定住した模様です。しかし、紀元前四世紀ごろ寒冷化が進み、呉王族は対馬・壱岐を経由して南下し、福岡市早良平野の吉武高木遺跡に移住したと推理しています。天皇家の皇祖神と考えられる天御中主(アメノミナカヌシ)です。弥生時代前期末か中期初頭のことです。魏略逸文に「倭人は太伯の後」という倭人の伝承が載っていますが、倭の王族のことですので、天皇家の遠い祖先にあたりますから驚きです。
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(注1)『稲作の起源は2017年現在、考古学的な調査と野生稲の約350系統のDNA解析の結果、約1万年前の中国長江流域の湖南省周辺地域と考えられている[4]。』とありますが(Wiki「稲作」より)、水田稲作は、『中国では、紀元前4000-3000年[1]新石器時代の馬家浜文化地域で水田跡が発掘されている[2][3][4]。有事のために貯蔵されたり、死者の埋葬時に共に埋められたりした新石器時代から皮付きの米が発掘されている[5]。』とあります(Wiki「田」によれば)。馬家浜文化地域というのは長江河口の現在の江蘇省南部から浙江省北部あたりです。
(注2)李昌熈「紀元前1千年紀の韓日関係」によれば、「韓半島南部では土器に残された圧痕やプラントオパール分析、孔列文土器の土器の時代に比定されている蔚山玉峴(オクキョン)遺跡の小区画水田などから、すでに紀元前11世紀の青銅器時代前期には水田稲作が行われたことは明らかである。紀元前10世紀までさかのぼっている西日本の稲作水田開始年代は、韓半島南部における水田稲作の開始年代に対応したものである。」「紀元前10世紀頃から、水田稲作文化に伴う物質文化と精神文化を包括する文化複合体が韓半島南部から日本列島へ拡散する。その背景には集団的で大規模な人の移動があったと考えられる。一方、日本列島から韓半島へ拡散した弥生系の遺物はほとんど見られない。」とあります(藤尾慎一郎編「再考!縄文と弥生」(吉川弘文館)2019、pp.60-61)。また、「日本列島に水田稲作文化を伝えたのが、松菊里文化の人々である。彼らと出会ったのは九州北部玄界灘沿岸地域の採集狩猟民(縄文人)である。」としています(同書。p.47)。刮目天は松菊里(ソングンニ)文化の人々は揚子江河口部の江南から半島南部に渡って来た倭人(呉人)と考えています。韓半島には縄文人も列島から渡って来ていたと思われ、彼らと混血していた可能性もあります。ですので、紀元前10世紀には北部九州へ渡って縄文人と交流したようです。(2022.1.26 追加)
(注3)紀元前206年から後8年の前漢時代を記述した「漢書 地理誌」に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」とあるので、この倭人は半島南部と列島を中心に活発に活動していた江南をルーツとする水田稲作と漁労を行う人々が安曇族で、縄文海人ムナカタ族も合わせて共に倭人と呼ばれたと考えられます。安曇族が西日本に分布する遠賀川式土器の担い手で、縄文人に稲作技術を伝え、その縄文人によってさらに東側に水田稲作が伝えられたと考えています。
(注4)紀元前十世紀ごろ頃の半島では水田跡が見られないので、半島の縄文系の人が湿地での散播式農法での水稲栽培を行っていたようです。その後、江南の倭人が北部九州に灌漑式の水田耕作を行った二段階渡来説が有力のようです(大川直士「倭国の創成期」論文019,日本古代史ネットワーク 2024.3)。
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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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