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前回「日本列島に集まった人々とは?」の中で、日本に呉音が定着した時期について述べました。wiki「呉音」#歴史には明確ではないとされていますので、少し調べてみて、以下のとおり加筆修正しました。
280年、西晋により呉が滅ぶと、倭人を頼って呉人(倭人O-47z)が列島に流入してきたと見られます。7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字の読みは呉音と言われるものですから、前10世紀ごろから列島に来た倭人(呉人)が漢字のもとになった文字(西周・春秋時代の金文)の発音を伝えたものではないでしょうか?
渡部雅史「大和朝廷成立の謎」幻冬舎2012 で以下の説を列挙していました(pp.26-36 筆者の要約)。
①紀元前五世紀に呉が滅亡して、列島へ呉の流民が来たという説
②紀元前三世紀、徐福が呉の人を連れてきたという説
③三国時代の呉から伝来したという説
④百済から伝わったとする説
最後の説は、日本書紀応神紀に漢字が百済の王仁(わに、古事記では和迩吉師、わにきし)により伝えられたとありますので、列挙されているようです。しかし、日本への漢字の伝来ですが、既に弥生中期から後期には硯石や木製組机などの出土から倭人が文字を使っていたと分かっています。さらに、糸島市三雲遺跡に楽浪土器が集中して出土しており、華僑や外交使節が居住していたと考えられ、彼らと交流して漢字を読み書きでき、さらに会話もできる倭人が居たとわかります。魏志倭人伝の地名や人名は倭国王だった難升米が魏の帯方郡太守に書いて教えたことまで掴みました(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/b8/c708c9d5a24d0b40739f6fbbd27da47f.png)
そして、Wiki「呉音」で、「学際研究者の藤井游惟は、呉音は呉地方の方言音ではなく「朝鮮音(百済音)」であり、白村江敗戦で大量亡命してきた百済人の子孫による「日本語訛りの朝鮮音」が定着したものだとしている[2]。」との説が紹介されています。
しかし、すでに紀元前11世紀ころから江南の倭人(呉人)が半島南部に展開しており、その後前10世紀には列島に流入しています。「渡来人は異民族とは限らない?」で述べた通り、百済人の多くは倭人であると推理していますので、663年の白村江敗戦で大量に百済人が列島に亡命したのは、百済人の多くが倭人であったためだと考えられます。ですから、現在使われている日本の呉音が江南で話されたものと少し変化していたとしても、半島で他民族との交わりの中で方言化したものと考えられます。
なお、ウィクショナリーで漢字の読みを調べると、三世紀の魏志倭人伝において、例えば、卑弥呼(姫御「ヒメゴ」)は呉音で「ヒミク」、漢音で「ヒビコ」、末盧(松浦「マツラ」)は呉音で「マツル」、漢音で「バツロ」で、あまり明確ではないようです。
伊都は呉音で「イツ」、漢音で「イト」とあり、漢音の方が正解のようですが、漢字を読み書きできる難升米が意味を考えて書いていますので、彼は漢音を宛てたということなのでしょうか?しかし、通説ではまだ漢音が伝わっていないとされていますので、古くからの地名や人名は、やはり呉音で漢字を宛てたのだと思います。
安本美典「倭人語の解読」勉誠出版2003に、漢字を万葉仮名で読んだ一覧表が掲載されていますが(pp.230-233)、上古音で卑弥呼は「pieg.mie'r.hag」、末盧は「muat.hlag」、伊都は「Ⅰer.tag」となっていますので、その響きはとても違和感があり、古代ではそのように発音されていたのであれば、呉音はどこに行ったのでしょうか?(´ω`*)。
今のところの結論は、やはり最初に述べたように弥生前期から列島に来ていた江南の倭人の発音が、現代にも呉音として残っているということにしておきます。この件で、詳しいことをご存知の方はぜひ、お教えください。よろしくお願い致します。
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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280年、西晋により呉が滅ぶと、倭人を頼って呉人(倭人O-47z)が列島に流入してきたと見られます。7-8世紀に漢音(長安付近の音韻)が伝わるより前にすでに日本に定着していた漢字の読みは呉音と言われるものですから、前10世紀ごろから列島に来た倭人(呉人)が漢字のもとになった文字(西周・春秋時代の金文)の発音を伝えたものではないでしょうか?
渡部雅史「大和朝廷成立の謎」幻冬舎2012 で以下の説を列挙していました(pp.26-36 筆者の要約)。
①紀元前五世紀に呉が滅亡して、列島へ呉の流民が来たという説
②紀元前三世紀、徐福が呉の人を連れてきたという説
③三国時代の呉から伝来したという説
④百済から伝わったとする説
最後の説は、日本書紀応神紀に漢字が百済の王仁(わに、古事記では和迩吉師、わにきし)により伝えられたとありますので、列挙されているようです。しかし、日本への漢字の伝来ですが、既に弥生中期から後期には硯石や木製組机などの出土から倭人が文字を使っていたと分かっています。さらに、糸島市三雲遺跡に楽浪土器が集中して出土しており、華僑や外交使節が居住していたと考えられ、彼らと交流して漢字を読み書きでき、さらに会話もできる倭人が居たとわかります。魏志倭人伝の地名や人名は倭国王だった難升米が魏の帯方郡太守に書いて教えたことまで掴みました(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
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しかし、すでに紀元前11世紀ころから江南の倭人(呉人)が半島南部に展開しており、その後前10世紀には列島に流入しています。「渡来人は異民族とは限らない?」で述べた通り、百済人の多くは倭人であると推理していますので、663年の白村江敗戦で大量に百済人が列島に亡命したのは、百済人の多くが倭人であったためだと考えられます。ですから、現在使われている日本の呉音が江南で話されたものと少し変化していたとしても、半島で他民族との交わりの中で方言化したものと考えられます。
なお、ウィクショナリーで漢字の読みを調べると、三世紀の魏志倭人伝において、例えば、卑弥呼(姫御「ヒメゴ」)は呉音で「ヒミク」、漢音で「ヒビコ」、末盧(松浦「マツラ」)は呉音で「マツル」、漢音で「バツロ」で、あまり明確ではないようです。
伊都は呉音で「イツ」、漢音で「イト」とあり、漢音の方が正解のようですが、漢字を読み書きできる難升米が意味を考えて書いていますので、彼は漢音を宛てたということなのでしょうか?しかし、通説ではまだ漢音が伝わっていないとされていますので、古くからの地名や人名は、やはり呉音で漢字を宛てたのだと思います。
安本美典「倭人語の解読」勉誠出版2003に、漢字を万葉仮名で読んだ一覧表が掲載されていますが(pp.230-233)、上古音で卑弥呼は「pieg.mie'r.hag」、末盧は「muat.hlag」、伊都は「Ⅰer.tag」となっていますので、その響きはとても違和感があり、古代ではそのように発音されていたのであれば、呉音はどこに行ったのでしょうか?(´ω`*)。
今のところの結論は、やはり最初に述べたように弥生前期から列島に来ていた江南の倭人の発音が、現代にも呉音として残っているということにしておきます。この件で、詳しいことをご存知の方はぜひ、お教えください。よろしくお願い致します。
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