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YouTubeに女性天皇と女系天皇に関する動画が沢山出ていましたので、女性天皇も存在しないという説をいちいちコメントしました。ほとんどが無反応ですが、この動画では、お返事いただきました。でも、下手なコメントだったせいもあり、こちらの趣旨を十分にご理解していただけなかったようなので、改めて考えてみました。いつもながら、ちょっとくどくなって恐縮ですが、お付き合いください。(/・ω・)/
標記の件ですが、古墳時代の始まりと関係あります。甕棺墓の時代に王墓は、王族のための特定集団墓の中に作られました。ところが二世紀中葉から首長単独の四隅突出型墳丘墓が出雲で出現し、日本海沿岸部に拡がります。同時に、吉備には前方後円墳のルーツとも考えられる楯築王墓が登場します。その後、近江で発祥と考えられる前方後方墳も東国で盛行します。
二世紀末(弥生後期後葉)に倭国大乱が起こります。日本列島の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、倭国大乱の痕跡を発見しました。戦場は主として北部九州でした。大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鍛冶集団の集落群が多数作られています。そして熊本県北部菊池川上流域の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡と「うてな」遺跡にも鉄鏃が沢山住居跡から出土しています。
佐賀平野吉野ヶ里遺跡の環濠や鳥栖市・小郡市などの集落の環濠などからも鉄鏃が見つかりました。福岡市西部や糸島市の遺跡からも出土しています。菊池川の集落に山陰や畿内の土器が見つかっていますので、山陰や畿内の勢力が集まり、北部九州の倭国を攻撃したものと考えられます(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
北九州市以東では環濠や溝などから鉄鏃・銅鏃は出土していませんので、北部九州以外は大規模な集団戦はなかったと考えられます。つまり、北部九州にあった倭国と、それを取り囲む勢力とが戦争状態にあったということが分かったわけです。
魏志倭人伝の記述から、倭国では、七・八十年間は男王が支配していましたが、その後乱れて相攻伐したとあります。107年に後漢に朝貢した倭国王帥升(正しくは伊都国王師升)の一族が王となって倭国を二世紀末まで統治していたのが、大乱が起こることによって誰が王なのか分からなくなったということですから、上述のとおり、かなり混乱した状態だったと想像します。東夷伝韓伝でも、韓人や濊人が暴れたとありますので、伊都国王が統治していた倭国が、楽浪郡と交易ができなくなって衰退していたので乱れたと分かります。
一方、倭国に敵対する勢力は、沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手しています。奴(ナーガ=龍蛇神)国の宮廷楽師だった師升らのクーデターによって滅ぼされた旧奴国、つまり狗奴国の勢力だと推理しました。狗奴国側の各地の首長に鉄製品を配布し、倭国よりも隆盛になっていったと推理しています(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。
出雲発祥の古墳の前身はこのような時代背景で生まれたということです。つまり、出雲から丹後半島などの鍛冶集落に半島の鉄素材を持ち込み、農具・武器などの鉄製品を製造して、狗奴国側の各地に配布する鉄交易ネットワークが作られたと考えられます。鉄の元締めの王を頂点として各地の首長の系列化が進み、首長たちの権力拡大が鉄製品供給によってもたらされたことから、従来の祖霊信仰から首長霊に対する信仰に移っていったと考えられます。
つまり、先代の首長の男系男子が、偉大な祖先の霊を身に付けて受け継ぐことにより、一層の功績を期待したようです。そのために先代の首長(王)を立派な古墳に葬り、古墳上で新たな首長(王)が首長霊を身に付けるための儀礼が行われたと考えられます。これによって、新しい首長(王)に先代の権力が移譲され、家臣団を引き継ぐための儀礼でもあったと考えられます。代々、王の名を襲名したということも首長霊信仰の考え方を表すものでしょう。
山陰から北陸の集団は、師升らによって殺害された奴国最後の王スサノヲ(「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊)の子イタケルの男系の子孫である狗古智卑狗(久々遅彦)を王と推戴するムナカタ海人族だったと推理しました。狗古智卑狗は、兵庫県豊岡市久々比神社の祭神で、上棟式の祭神でもある木霊の久々遅命または久々智神と推理しました。
スサノヲ大王は、母イザナミの実家のムナカタ海人族を率いてしばしば半島南部に渡り、鉄生産を支配していたと考えています。スサノヲのコネによって狗古智卑狗が鉄を入手できたものと推理しました。三国史記の新羅第四代脱解王は倭国の東北千里のタバナ国(丹波の奴国)出身とありますが、脱解王のモデルがスサノヲで、狗古智卑狗が脱解王の子孫の王たちのモデルとなった人物なのでしょう。
また、イタケルと同時に奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒが、瀬戸内航路の要衝であった吉備の、倭国側に取り入って交易していた有力な在地勢力を、イタケル王の支援で討って、吉備で奴国を再興した人物だと推理しました(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。楯築王墓の被葬者と考えています。楯築神社の御神体の亀石(弧帯文石)が人面蛇体でした。中国神話で人類の始祖神とされた天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。天御中主(アメノミナカヌシ)を初代王とする奴(龍蛇神)国王は伏羲の末裔だったのです。
三世紀初頭に倭国大乱の英雄狗古智卑狗が伊都国の難升米に討たれたので、大活躍していた王を失った玄界灘を支配するムナカタ族の族長赤坂比古が難升米に懐柔されたと考えました。魏志倭人伝では女王が共立されたとしていますが、政治的な理由で難升米と帯方郡太守が卑弥呼を女王ということにしたと推理しました。実態は、ムナカタの姫巫女卑弥呼(通称ヒメゴ)の太陽神のお告げによって倭国の政治を行うことを条件で、狗奴国を裏切ったと推理しています。卑弥呼の政治を輔佐する男弟が、師升王の子孫の難升米であり、実際上の倭国王だったと推理しています(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
このころ政治都市の纏向遺跡が突然造営され、東海・山陰・北陸・河内・近江・四国東部、関東などの首長層の人々が集まって祭祀が行われています。最初の前方後円墳の石塚古墳が210年頃に作られます。初期の前方後円墳の属性を調べると、北部九州(奴国)、吉備(楯築遺跡)、出雲発祥のものが見られますが、九州の土器が出土してません。纏向の祭祀に九州にあった倭国の人々が参加していませんから、纏向遺跡の勢力は倭国と敵対する狗奴国(旧奴国)だと分かります。
纏向遺跡はニギハヤヒ大王の直系の王卑弥弓呼(日子御子)が旧奴国の勢力を呼び寄せて、恨みのある倭国王一族と狗奴国を裏切った赤坂比古らを征討するために作られた祭祀都市だと分かります。大型の神殿や大量の桃の種が出土していることからも分かります。
この後の話は少し込み入っていますので、ここでは触れませんが、ニギハヤヒ大王が天皇伏羲の末裔だという認識は、魏略逸文「倭人は呉の太伯の後」からも分かります。倭人の王が紀元前473年に滅んだ呉の王族だったことを意味しています。
ヤマトの大王を七世紀末に対外的に天皇と呼んた理由だったのです。
京都にある天皇家の菩提寺で祀られている歴代天皇は、初代天御中主の子孫である第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の男系男子だということです。明治になるまで女性天皇は誰一人として祀られていなかったとのことです(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」参照)。
憲法に規定された国事行為は摂政が代理でできますが、偉大な皇祖神の霊力を身に付けて国家と国民の安寧と繁栄を皇祖神に祈る宮中祭祀が天皇陛下の最も重要なお仕事なのです。天皇が即位した後に一回だけ行われる大嘗祭では、真床追衾という儀礼によって皇祖神と一体となり、皇祖神の霊力を身に付けるのです。皇祖神の男系男子が継承した男性の天皇が宮中祭祀を執り行うのが二世紀中葉から始まった首長霊信仰によるご皇室の伝統なのです。
女性天皇は藤原不比等のフェイクでした(「【日本人必見】女神アマテラスは血塗られた皇祖神!」参照)。
最後までお付き合い、ありがとうございます。アドバイスやご意見を頂けると助かります(/・ω・)/
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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標記の件ですが、古墳時代の始まりと関係あります。甕棺墓の時代に王墓は、王族のための特定集団墓の中に作られました。ところが二世紀中葉から首長単独の四隅突出型墳丘墓が出雲で出現し、日本海沿岸部に拡がります。同時に、吉備には前方後円墳のルーツとも考えられる楯築王墓が登場します。その後、近江で発祥と考えられる前方後方墳も東国で盛行します。
二世紀末(弥生後期後葉)に倭国大乱が起こります。日本列島の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、倭国大乱の痕跡を発見しました。戦場は主として北部九州でした。大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鍛冶集団の集落群が多数作られています。そして熊本県北部菊池川上流域の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡と「うてな」遺跡にも鉄鏃が沢山住居跡から出土しています。
佐賀平野吉野ヶ里遺跡の環濠や鳥栖市・小郡市などの集落の環濠などからも鉄鏃が見つかりました。福岡市西部や糸島市の遺跡からも出土しています。菊池川の集落に山陰や畿内の土器が見つかっていますので、山陰や畿内の勢力が集まり、北部九州の倭国を攻撃したものと考えられます(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
北九州市以東では環濠や溝などから鉄鏃・銅鏃は出土していませんので、北部九州以外は大規模な集団戦はなかったと考えられます。つまり、北部九州にあった倭国と、それを取り囲む勢力とが戦争状態にあったということが分かったわけです。
魏志倭人伝の記述から、倭国では、七・八十年間は男王が支配していましたが、その後乱れて相攻伐したとあります。107年に後漢に朝貢した倭国王帥升(正しくは伊都国王師升)の一族が王となって倭国を二世紀末まで統治していたのが、大乱が起こることによって誰が王なのか分からなくなったということですから、上述のとおり、かなり混乱した状態だったと想像します。東夷伝韓伝でも、韓人や濊人が暴れたとありますので、伊都国王が統治していた倭国が、楽浪郡と交易ができなくなって衰退していたので乱れたと分かります。
一方、倭国に敵対する勢力は、沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手しています。奴(ナーガ=龍蛇神)国の宮廷楽師だった師升らのクーデターによって滅ぼされた旧奴国、つまり狗奴国の勢力だと推理しました。狗奴国側の各地の首長に鉄製品を配布し、倭国よりも隆盛になっていったと推理しています(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。
出雲発祥の古墳の前身はこのような時代背景で生まれたということです。つまり、出雲から丹後半島などの鍛冶集落に半島の鉄素材を持ち込み、農具・武器などの鉄製品を製造して、狗奴国側の各地に配布する鉄交易ネットワークが作られたと考えられます。鉄の元締めの王を頂点として各地の首長の系列化が進み、首長たちの権力拡大が鉄製品供給によってもたらされたことから、従来の祖霊信仰から首長霊に対する信仰に移っていったと考えられます。
つまり、先代の首長の男系男子が、偉大な祖先の霊を身に付けて受け継ぐことにより、一層の功績を期待したようです。そのために先代の首長(王)を立派な古墳に葬り、古墳上で新たな首長(王)が首長霊を身に付けるための儀礼が行われたと考えられます。これによって、新しい首長(王)に先代の権力が移譲され、家臣団を引き継ぐための儀礼でもあったと考えられます。代々、王の名を襲名したということも首長霊信仰の考え方を表すものでしょう。
山陰から北陸の集団は、師升らによって殺害された奴国最後の王スサノヲ(「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊)の子イタケルの男系の子孫である狗古智卑狗(久々遅彦)を王と推戴するムナカタ海人族だったと推理しました。狗古智卑狗は、兵庫県豊岡市久々比神社の祭神で、上棟式の祭神でもある木霊の久々遅命または久々智神と推理しました。
スサノヲ大王は、母イザナミの実家のムナカタ海人族を率いてしばしば半島南部に渡り、鉄生産を支配していたと考えています。スサノヲのコネによって狗古智卑狗が鉄を入手できたものと推理しました。三国史記の新羅第四代脱解王は倭国の東北千里のタバナ国(丹波の奴国)出身とありますが、脱解王のモデルがスサノヲで、狗古智卑狗が脱解王の子孫の王たちのモデルとなった人物なのでしょう。
また、イタケルと同時に奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒが、瀬戸内航路の要衝であった吉備の、倭国側に取り入って交易していた有力な在地勢力を、イタケル王の支援で討って、吉備で奴国を再興した人物だと推理しました(「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。楯築王墓の被葬者と考えています。楯築神社の御神体の亀石(弧帯文石)が人面蛇体でした。中国神話で人類の始祖神とされた天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。天御中主(アメノミナカヌシ)を初代王とする奴(龍蛇神)国王は伏羲の末裔だったのです。
三世紀初頭に倭国大乱の英雄狗古智卑狗が伊都国の難升米に討たれたので、大活躍していた王を失った玄界灘を支配するムナカタ族の族長赤坂比古が難升米に懐柔されたと考えました。魏志倭人伝では女王が共立されたとしていますが、政治的な理由で難升米と帯方郡太守が卑弥呼を女王ということにしたと推理しました。実態は、ムナカタの姫巫女卑弥呼(通称ヒメゴ)の太陽神のお告げによって倭国の政治を行うことを条件で、狗奴国を裏切ったと推理しています。卑弥呼の政治を輔佐する男弟が、師升王の子孫の難升米であり、実際上の倭国王だったと推理しています(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
このころ政治都市の纏向遺跡が突然造営され、東海・山陰・北陸・河内・近江・四国東部、関東などの首長層の人々が集まって祭祀が行われています。最初の前方後円墳の石塚古墳が210年頃に作られます。初期の前方後円墳の属性を調べると、北部九州(奴国)、吉備(楯築遺跡)、出雲発祥のものが見られますが、九州の土器が出土してません。纏向の祭祀に九州にあった倭国の人々が参加していませんから、纏向遺跡の勢力は倭国と敵対する狗奴国(旧奴国)だと分かります。
纏向遺跡はニギハヤヒ大王の直系の王卑弥弓呼(日子御子)が旧奴国の勢力を呼び寄せて、恨みのある倭国王一族と狗奴国を裏切った赤坂比古らを征討するために作られた祭祀都市だと分かります。大型の神殿や大量の桃の種が出土していることからも分かります。
この後の話は少し込み入っていますので、ここでは触れませんが、ニギハヤヒ大王が天皇伏羲の末裔だという認識は、魏略逸文「倭人は呉の太伯の後」からも分かります。倭人の王が紀元前473年に滅んだ呉の王族だったことを意味しています。
ヤマトの大王を七世紀末に対外的に天皇と呼んた理由だったのです。
京都にある天皇家の菩提寺で祀られている歴代天皇は、初代天御中主の子孫である第十九代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の男系男子だということです。明治になるまで女性天皇は誰一人として祀られていなかったとのことです(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」参照)。
憲法に規定された国事行為は摂政が代理でできますが、偉大な皇祖神の霊力を身に付けて国家と国民の安寧と繁栄を皇祖神に祈る宮中祭祀が天皇陛下の最も重要なお仕事なのです。天皇が即位した後に一回だけ行われる大嘗祭では、真床追衾という儀礼によって皇祖神と一体となり、皇祖神の霊力を身に付けるのです。皇祖神の男系男子が継承した男性の天皇が宮中祭祀を執り行うのが二世紀中葉から始まった首長霊信仰によるご皇室の伝統なのです。
女性天皇は藤原不比等のフェイクでした(「【日本人必見】女神アマテラスは血塗られた皇祖神!」参照)。
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