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古代史ランキング
2021-02-14 14:10:00にアップしましたが、その後判明したことを(注1)と(注2)に追加しました。お付き合いください(^_-)-☆
古代のワニ氏の拠点だった天理市櫟本町(いちのもとちょう)の前方後円墳東大寺山古墳から発掘された中平紀年銘大刀が知られています。女王卑弥呼に与えられたものだろうという説を、考古学の専門家の方々が発言されています。今日はこの話題にします。

被葬者を葬った棺の外側には、鉄刀・鉄剣・鉄槍など、多量の武器や武具が並べられていました。とくに有名な中平銘鉄刀は、全長 110cm の刀身の棟の部分に金象嵌で 24 文字の吉祥句を表し、「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」と読むことができます。銘文の冒頭に刻まれた後漢の年号、「中平」(紀元後 184 ~ 190 年)は、考古資料に記された国内で最も古いものです。
2 世紀末の中国で製作された鉄刀が、いったい、どのような経緯で奈良盆地にもたらされ、4 世紀後半に築造された東大寺山古墳の副葬品になったのか、謎がつきません。東大寺山古墳から出土した多数の鉄刀のなかには、オリジナルの鉄刀を改造して、家形や花形をした日本列島産の青銅製環頭を取り付けたものが多く見られます。
東大寺山古墳の北側500mほどに和爾坐赤坂比古神社があります。祭神は阿田賀田須命(赤坂比古命)と市杵島比売命(イチキシマヒメ)の二柱です。イチキシマヒメは宗像三女神の一柱で、厳島神社で主祭神として全国で祀られています。神仏習合で弁財天としても祀られています。刮目天はすでに卑弥呼だと突き止めています(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。
また、阿田賀田須命は玄松子さんのデータベース「吾田片隅命」によると以下のとおりです。
別名、阿田賀田須命。
素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう。
素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。
ワニ氏は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。とWiki「和珥氏(わにうじ)」にあります。すでに、卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)・【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆で、卑弥呼が日食(247年3月24日)が原因で倭王に暗殺されたことを示唆する神社だと述べましたが、ワニ氏は日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族の一支族で、卑弥呼を女王に共立した卑弥呼ゆかりの一族だと考えています。藤原不比等によって日牟禮(ひむれ)八幡宮と神社名を強引に変えられたようです。
後漢末期のこの時期は、朝廷の内部抗争が続き、気候の大変化もあって民衆も相当疲弊して黄巾の乱が起こりました(184年)。三国志の幕開けの時代です。公孫氏が186年に遼東太守になりましたが、半島内では濊人や韓人が強盛になって楽浪郡が統制できなくなったと「三国志 東夷伝韓伝」にあります。
またこの鉄刀の象嵌の出来があまりよくないので洛陽で製造したものではないようです(金関恕「卑弥呼女王の共立」考古学雑誌 2017,99-2,p.133)。この銘文は「よく鍛えられた刀であり、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることが出来る」という意味ですから、遼東周辺の部族に公孫氏が造って直接下賜したものだとは考えられますが、半島が乱れている時期ですので遠い倭国から後漢に朝貢して、この大刀が倭王に下賜されたとは考えにくいのです。
卑弥呼が女王に共立されたのはもっと後でしょう。
倭国大乱はこの半島の混乱と連動して起こったのだと推理しています。伊都国を王都とした師升の一族の倭王難升米と旧奴国勢力との武力抗争が大きくなったと考えています。狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦、兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命)が最前線でムナカタ海人族などの旧奴国勢力を指揮して倭国勢とかなり大きな戦闘が行われたようです。熊本県山鹿市の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)やその周辺に鉄製武器(主に鉄鏃)製造の軍事拠点を造って、佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡や福岡県小郡市付近などの倭国側の集落を襲撃した痕跡が残っています。さらには伊都国の東側の集落にも戦闘の痕跡が見られますので、范曄「後漢書倭伝」にある通り、何年もの間統一した君主がない、かなり混乱した状況だったようです。
そして、公孫氏が半島の混乱を収めて204年に帯方郡を設置しましたので、難升米王は早速朝貢し、軍事援助を受けたと推理しています。倭国は勢力を取り戻し、倭国を苦しめていた熊本の軍事拠点を襲撃して、そこで大国主の先代久々遅彦が戦死したのではないかと考えています(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」「【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?(@_@)」「【国宝】臼杵石仏の謎?(*^-^*)」参照)。
大活躍していた王を亡くしたことで勢いを失った久々遅彦配下のムナカタ族(ワニ氏の祖)の族長先代赤坂比古を難升米王が懐柔し、娘の卑弥呼(イチキシマヒメ)を女王に共立したと推理しています。実態は、権力を持った女王ではなく姫巫女として、ムナカタ族の祭祀様式を倭国に導入する譲歩を倭王が行ったと考えています。このころ北部九州で盛行した甕棺墓が消えて、石棺墓などに変わっていますから、奴国以来の伝統的な祭祀様式を止めた模様です。それくらい倭国側は苦しめられていたということでしょう(注1)。(2022.6.14 赤字追加)
三世紀末ですが、ヤマト政権に滅ぼされたムナカタ族は応神天皇が初代祭祀王に即位した後にヤマト朝廷から許されて、近江で製鉄や対外交易で隆盛になり、天理市櫟本町(いちのもとちょう)にも進出して大王(オオキミ)の妃を出す有力氏族になったようです。その頃に偶然半島との交易で入手したのかも知れません(注2)。(2022.6.14 赤字追加)
そして七世紀後半ですが、天武天皇の長男高市皇子も母は宗形徳善の娘、尼子娘でした。
しかし、天武天皇の崩御後に藤原不比等が実権を握りました。上で述べたように日本建国の真相を隠すために、有力だった氏族の氏神を祀る神社の名前や祭神まで変更させ、歴史を改ざんしています。おそらく卑弥呼にゆかりのワニ氏の名前も、不比等が「日本書紀」日向三代の神話で天皇家をワニの近親相姦の一族だったと貶めるために作ったもので、本当は別の氏族名だったのかも知れませんよ(;一_一)
(注1)「伊都国の意味がヒントだった?」で述べたように、魏志倭人伝の地名や人名などは漢字を読み書きでき、孟子も読む教養人の伊都国男王難升米(倭国王師升の子孫)が直接帯方郡太守劉夏に書いて教えたものです。その際、漢字を読み書きできない倭人に対しては蔑む悪字を書いていることも分かりました。狗古智卑狗が最も酷い例です。よほど苦しめられた人物だったことを表しています(^_-)-☆(2022.6.14 追加)
(注2)と書きましたが、やはり倭国王(難升米の先代)が公孫氏から賜った可能性が高いと思います。238年に魏の太尉司馬懿によって公孫氏が滅ぼされたので、難升米が朝貢のために帯方郡に直接乗り込み、司馬懿に取り入るために太守劉夏と談合して、司馬懿に都合のよいように倭国の情報を書き換えたと推理しています(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。難升米は公孫氏から与えられた中平銘鉄刀を配下のムナカタ海人族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の弟、日触使主)に下賜したと考えられます(「女王を共立した赤坂比古は?」に書いたとおり、卑弥呼の父で先代赤坂比古は既に亡くなり卑弥呼の宮室があった宇佐市安心院町宮ノ原遺跡に直径約120mの巨大円墳で埋葬されていると推理)。
「投馬国へ水行してみませんか?(注2)」で推理したように、公孫氏から馬を賜っていましたが、公孫氏との関わりを魏に説明することを避けるために、240年最初の魏使梯儁(ていしゅん)が来訪する直前に、公孫氏に与えられた中平銘鉄刀と同様に、投馬国の長官弥弥(みみ)に下賜したと推理しました。「投馬(ズメ)」という国名は「馬を与える」という意味です。漢字の意味を知っている難升米がその国名として「投馬」の漢字を宛てたものと考えられます。劉夏との話で、投馬国へは伊都国からさらに二十日以上かかる遠隔地ということにしていたので、梯儁は伊都国で難升米に面会して仕事を終えたものと考えられます。行ったとしても、せいぜい隣の奴国まででしょう。奴国には列島内最大の交易センターとして那珂・比恵遺跡群を整備しており、多くの人々が集まっていた模様ですから、倭国がにぎわっている様子を見学させたかもしれません(「【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?」参照)。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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古代のワニ氏の拠点だった天理市櫟本町(いちのもとちょう)の前方後円墳東大寺山古墳から発掘された中平紀年銘大刀が知られています。女王卑弥呼に与えられたものだろうという説を、考古学の専門家の方々が発言されています。今日はこの話題にします。

被葬者を葬った棺の外側には、鉄刀・鉄剣・鉄槍など、多量の武器や武具が並べられていました。とくに有名な中平銘鉄刀は、全長 110cm の刀身の棟の部分に金象嵌で 24 文字の吉祥句を表し、「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□(下避不祥)」と読むことができます。銘文の冒頭に刻まれた後漢の年号、「中平」(紀元後 184 ~ 190 年)は、考古資料に記された国内で最も古いものです。
2 世紀末の中国で製作された鉄刀が、いったい、どのような経緯で奈良盆地にもたらされ、4 世紀後半に築造された東大寺山古墳の副葬品になったのか、謎がつきません。東大寺山古墳から出土した多数の鉄刀のなかには、オリジナルの鉄刀を改造して、家形や花形をした日本列島産の青銅製環頭を取り付けたものが多く見られます。
東大寺山古墳の北側500mほどに和爾坐赤坂比古神社があります。祭神は阿田賀田須命(赤坂比古命)と市杵島比売命(イチキシマヒメ)の二柱です。イチキシマヒメは宗像三女神の一柱で、厳島神社で主祭神として全国で祀られています。神仏習合で弁財天としても祀られています。刮目天はすでに卑弥呼だと突き止めています(「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。
また、阿田賀田須命は玄松子さんのデータベース「吾田片隅命」によると以下のとおりです。
別名、阿田賀田須命。
素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう。
素盞鳴尊の御子・宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。
ワニ氏は、「和珥」を氏の名とする氏族。5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。とWiki「和珥氏(わにうじ)」にあります。すでに、卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)・【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆で、卑弥呼が日食(247年3月24日)が原因で倭王に暗殺されたことを示唆する神社だと述べましたが、ワニ氏は日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族の一支族で、卑弥呼を女王に共立した卑弥呼ゆかりの一族だと考えています。藤原不比等によって日牟禮(ひむれ)八幡宮と神社名を強引に変えられたようです。
後漢末期のこの時期は、朝廷の内部抗争が続き、気候の大変化もあって民衆も相当疲弊して黄巾の乱が起こりました(184年)。三国志の幕開けの時代です。公孫氏が186年に遼東太守になりましたが、半島内では濊人や韓人が強盛になって楽浪郡が統制できなくなったと「三国志 東夷伝韓伝」にあります。
またこの鉄刀の象嵌の出来があまりよくないので洛陽で製造したものではないようです(金関恕「卑弥呼女王の共立」考古学雑誌 2017,99-2,p.133)。この銘文は「よく鍛えられた刀であり、天上では神の御意に叶い、下界では禍を避けることが出来る」という意味ですから、遼東周辺の部族に公孫氏が造って直接下賜したものだとは考えられますが、半島が乱れている時期ですので遠い倭国から後漢に朝貢して、この大刀が倭王に下賜されたとは考えにくいのです。
卑弥呼が女王に共立されたのはもっと後でしょう。
倭国大乱はこの半島の混乱と連動して起こったのだと推理しています。伊都国を王都とした師升の一族の倭王難升米と旧奴国勢力との武力抗争が大きくなったと考えています。狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦、兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命)が最前線でムナカタ海人族などの旧奴国勢力を指揮して倭国勢とかなり大きな戦闘が行われたようです。熊本県山鹿市の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)やその周辺に鉄製武器(主に鉄鏃)製造の軍事拠点を造って、佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡や福岡県小郡市付近などの倭国側の集落を襲撃した痕跡が残っています。さらには伊都国の東側の集落にも戦闘の痕跡が見られますので、范曄「後漢書倭伝」にある通り、何年もの間統一した君主がない、かなり混乱した状況だったようです。
そして、公孫氏が半島の混乱を収めて204年に帯方郡を設置しましたので、難升米王は早速朝貢し、軍事援助を受けたと推理しています。倭国は勢力を取り戻し、倭国を苦しめていた熊本の軍事拠点を襲撃して、そこで大国主の先代久々遅彦が戦死したのではないかと考えています(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」「【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?(@_@)」「【国宝】臼杵石仏の謎?(*^-^*)」参照)。
大活躍していた王を亡くしたことで勢いを失った久々遅彦配下のムナカタ族(ワニ氏の祖)の族長先代赤坂比古を難升米王が懐柔し、娘の卑弥呼(イチキシマヒメ)を女王に共立したと推理しています。実態は、権力を持った女王ではなく姫巫女として、ムナカタ族の祭祀様式を倭国に導入する譲歩を倭王が行ったと考えています。このころ北部九州で盛行した甕棺墓が消えて、石棺墓などに変わっていますから、奴国以来の伝統的な祭祀様式を止めた模様です。それくらい倭国側は苦しめられていたということでしょう(注1)。(2022.6.14 赤字追加)
三世紀末ですが、ヤマト政権に滅ぼされたムナカタ族は応神天皇が初代祭祀王に即位した後にヤマト朝廷から許されて、近江で製鉄や対外交易で隆盛になり、天理市櫟本町(いちのもとちょう)にも進出して大王(オオキミ)の妃を出す有力氏族になったようです。その頃に偶然半島との交易で入手したのかも知れません(注2)。(2022.6.14 赤字追加)
そして七世紀後半ですが、天武天皇の長男高市皇子も母は宗形徳善の娘、尼子娘でした。
しかし、天武天皇の崩御後に藤原不比等が実権を握りました。上で述べたように日本建国の真相を隠すために、有力だった氏族の氏神を祀る神社の名前や祭神まで変更させ、歴史を改ざんしています。おそらく卑弥呼にゆかりのワニ氏の名前も、不比等が「日本書紀」日向三代の神話で天皇家をワニの近親相姦の一族だったと貶めるために作ったもので、本当は別の氏族名だったのかも知れませんよ(;一_一)
(注1)「伊都国の意味がヒントだった?」で述べたように、魏志倭人伝の地名や人名などは漢字を読み書きでき、孟子も読む教養人の伊都国男王難升米(倭国王師升の子孫)が直接帯方郡太守劉夏に書いて教えたものです。その際、漢字を読み書きできない倭人に対しては蔑む悪字を書いていることも分かりました。狗古智卑狗が最も酷い例です。よほど苦しめられた人物だったことを表しています(^_-)-☆(2022.6.14 追加)
(注2)と書きましたが、やはり倭国王(難升米の先代)が公孫氏から賜った可能性が高いと思います。238年に魏の太尉司馬懿によって公孫氏が滅ぼされたので、難升米が朝貢のために帯方郡に直接乗り込み、司馬懿に取り入るために太守劉夏と談合して、司馬懿に都合のよいように倭国の情報を書き換えたと推理しています(「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。難升米は公孫氏から与えられた中平銘鉄刀を配下のムナカタ海人族の族長赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の弟、日触使主)に下賜したと考えられます(「女王を共立した赤坂比古は?」に書いたとおり、卑弥呼の父で先代赤坂比古は既に亡くなり卑弥呼の宮室があった宇佐市安心院町宮ノ原遺跡に直径約120mの巨大円墳で埋葬されていると推理)。
「投馬国へ水行してみませんか?(注2)」で推理したように、公孫氏から馬を賜っていましたが、公孫氏との関わりを魏に説明することを避けるために、240年最初の魏使梯儁(ていしゅん)が来訪する直前に、公孫氏に与えられた中平銘鉄刀と同様に、投馬国の長官弥弥(みみ)に下賜したと推理しました。「投馬(ズメ)」という国名は「馬を与える」という意味です。漢字の意味を知っている難升米がその国名として「投馬」の漢字を宛てたものと考えられます。劉夏との話で、投馬国へは伊都国からさらに二十日以上かかる遠隔地ということにしていたので、梯儁は伊都国で難升米に面会して仕事を終えたものと考えられます。行ったとしても、せいぜい隣の奴国まででしょう。奴国には列島内最大の交易センターとして那珂・比恵遺跡群を整備しており、多くの人々が集まっていた模様ですから、倭国がにぎわっている様子を見学させたかもしれません(「【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?」参照)。
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