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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その22)猿田彦大神の石碑のなぞ?

2022-10-09 13:53:25 | 古代史
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7.記紀と日本人の信仰の謎
⑧猿田彦大神の石碑のなぞ?

大国主久々遅彦の先代で魏志倭人伝に登場する狗奴国の官狗古智卑狗が倭国王難升米の急襲によって戦死したと推理していたので、熊本県北部の山鹿市茶臼塚古墳を紹介された自転車クマさんのブログの説明から、この古墳が狗古智卑狗のものであると推理しました(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)」参照)。その時にその周辺をGoogle Mapで調べると猿田彦大神と彫られた石碑が以下の通り、周辺の多数の神社などで見つかりました。


(①クリックするとマイマップに飛ぶ。②好きな記号をクリックしてポップアップの中の「Googleマップで見る」をクリックするとMapが開き、写真が見れます。③石碑の写真を探してください( ^)o(^ ))


石碑は下図のようなもので、狗古智卑狗の古墳の直ぐ隣に御宇田神宮があり、その中に4基が見つかりました。まだあるかも知れません。そのうち2基はそれぞれの台座に明治4年と29年と書かれています。他のものは、写真からは判然としませんが古いものかも知れません。これらは石に猿田彦大神と書かれており、その文字の最初に「丸に一文字」の神紋と思われる記号があり、この古墳を中心として周辺の山鹿市、菊池市など25か所で同じ様式のものが見つかりました。まだ、あるのかもしれませんが、ほとんどの場所での石碑の数は1基ですが、2基置かれているところも数か所あります。マイマップを公開しますのでご確認ください。この地区の外側にも石碑は見られますが、神紋は書かれていません。全国でよく見られるものと大体同じものだと思います(地図に紫色で示す)。この地区のように同じ様式のものが集中している場所は他には知りません。この件で何かご存じの方が居られましたらお教えください。

(クリックすると引用したページにジャンプ)

この地区には狗古智卑狗(先代久々遅彦)が北部九州の倭国を攻撃するために構築した最前線の集落が図の通りあります(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。上述の通り、この付近で戦死して、後に葬られた茶臼塚古墳は丹後地方で盛行した方墳であり、その上に大日如来の石祠が設置されていることから狗古智卑狗の古墳と分かりました。前回(その21)で見たとおり弘法大師空海が日本にもたらした曼荼羅には、大日如来を中心にその周りに描かれた菩薩たちの中に大国主久々遅彦の本地仏である弥勒菩薩が北東方向あります。

この方向を伸ばしてゆくと大分県宇佐市安心院町佐田地区にある米神山(475m)に到達します。その山の中腹の「月の神谷」と呼ばれる場所で柱状節理が見られ、石柱やその破片などが散乱していますが、その中の三・四本がすべて南西方向に向けて設置してありました。もっと数多く設置してあったのではないかと思いますが、台風で周辺の木が倒れるなどの影響で現状のようになってしまったのかも知れません。つまり、人工的に置かれた石柱が山鹿市の茶臼塚古墳の方向に向いているのです。古墳の墳頂に設置された大日如来は米神山の方角に、(その8)で説明した大国主命が最初に国造りした中つ国の豊葦原の瑞穂の国があるということを示唆していたと分かり飛び上がるほどビックリしました(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。

サルタヒコは記紀のニニギノミコトの天孫降臨に登場する身長が約2m、鼻が大きく、目がホオズキのように赤い、天狗のような風貌をした神です。アメノウズメが誰何し、名乗ります。この神が道案内して、ニニギの一行が無事に葦原中国に到着したということで、天地を照らす教導(みちびき)の神とされています。wiki「サルタヒコ」によれば倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である大田命(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。全国各地で祀られていますが、その総本宮が伊勢市宇治の猿田彦神社です。また全国に椿神社などで祀られており、鈴鹿市の椿大神社(つばきおおかみやしろ)も総本宮とされています。しかし、猿田彦を祀る神社は、実は出雲大社の近くの松江市佐太神社(さだじんじゃ)があり、毎年神在月に全国の神々が集う場所は現在出雲大社ですが、古くはこの佐太神社(佐陀大社)だったとのことです。下図の二匹のへびは大国主と台与ですよ。しめ縄の起源でしょう!(^_-)-☆



安心院町佐田地区には佐田京石と呼ばれる立派なストーンサークルが米神山の山麓にあり、大国主がこの地を京(みやこ)と定めて、祭祀を行った場所だと分かりました。その南側にある佐田神社が大国主が王宮とした場所だと思います。この神社の祭神を見ると、普通に見られる猿田彦命が書かれておらず、武内宿禰・素盞鳴尊・大山祇命の三柱でしたので、すべて大国主命のことだと分かりました(「武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!」「大山祇も大山咋も正体は大国主でした」参照)。スサノヲは大国主の祖先ですので、大国主とスサノヲの霊が一体になっていると当時の人々は考えていたということなのです。米神(首長霊)信仰と呼びました。スサノヲが高天原を追放された後のヤマタノオロチ伝説のスサノヲも、スサノヲ大王から首長霊を引き継いでいる大国主命のことなのです。佐田地区の人々はそれとなくサルタヒコが大国主の分身だと教えてくれているのです(^_-)-☆

先述の御宇田神社の祭神を見ると、天照皇大神、豊受日賣大神、素盞男命、健磐龍命、阿蘇津日賣命とあります。江戸時代の文化人も多くの人々は伊勢神宮の祭神アマテラスは男神でその正体はへびだと知っていました(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。秦河勝の末裔である観阿弥・世阿弥の謡曲「三輪」にも伊勢の神と三輪の大物主(大国主命)は同一神だと暴露しています(「能楽が建国の真相を伝える?」参照)。ですから、伊勢神宮内宮の天照皇大神が呼び寄せたとされる外宮の豊受日賣大神は大国主久々遅彦の妃であった女王台与のことです。健磐龍命(たけいわたつのみこと)は阿蘇大明神ですのでアソツヒコのことです。阿蘇津日賣命(あそつひめ)とペアなのです。纏向遺跡の箸墓の被葬者ヤマトトトビモモソヒメは三輪山の大物主の妻ですから、台与のことなのですよ。

大国主久々遅彦と女王台与を様々なペアの神としましたが、江戸時代までの多くの人々は大体わかっていたはずです。庚申講が流行したときに、全国各地に庚申塚・庚申塔が作られました。これについても「庚申塚もそうだったの?」で述べました。wiki「庚申塚」によれば、「庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。当初は青面金剛や三猿像のほか、阿弥陀、地蔵など主尊が定まっていない時期を経て、徐々に青面金剛像が主尊の主流となった。その後、江戸中期から後期にかけて「庚申塔」あるいは「庚申」と文字のみ彫り付ける形式が増加する。」とあります。

江戸時代に入って「サル」の音から庚申講と結び付けられたために全国的に猿田彦大神の石碑が作られたと思われますが、今回見た、この地区に集中して作られた猿田彦大神の石碑は、この地区の人々が猿田彦大神が大国主の分身だと知っていたことを意味していると思います。「丸に一文字」の神紋をMapで調べると柳川市の日吉神社にありました。山王さんと呼ばれ、大山咋神が主祭神ですが、前回見たように大国主のことです。御宇田神宮の主祭神天照皇大神は「日の神」ですから、「日」という字を記号化したのでしょうか。大日如来の石祠を置いたのも同じ集団だと思います。おそらく大国主は父王の終焉の地や周辺を何度も訪れ、祭祀を行ったりしたと思います。中央構造線上にあるので、多くの鉱物が採れますし、地震も多いところでしょう。千五百年以上も前の大国主命の記憶が土地の方たちに語り伝えられて残っていたのだと考えられます。記紀神話によって真相が隠されながらも、日本建国の真相を語り伝えてきた人々のおかげで、謎の古代史は解明できるのだと思います。

なお、「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」で述べましたが、道祖神で男女二人のペアのものが見られますが、これも大国主と台与でしたよ。

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