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長髄彦(ナガスネヒコ)の正体も?(@_@)

2024-04-07 04:59:34 | 古代史
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#2023.01.22 に記事にしましたが最近話題沸騰の富雄丸山古墳の被葬者がここの地名から記紀神話のナガスネヒコだと言う説が見られたので、その誤解を解くために再度記事にしました。よろしければ、
またお付き合い下さい^_^

長髄彦(ナガスネヒコ)という名を聞いたことがあると思います。神武東征神話に登場する人物でイワレヒコ(神武天皇)に最後まで抵抗した大和側のリーダーです。イワレヒコ率いる皇軍が内つ国(大和)に着いてからナガスネヒコに撃退され、一旦は熊野まで回って再度、ヤマトの東から進撃し、ついにイワレヒコの皇軍は長髄彦(ナガスネヒコ)を討つことになります。そこからの話を以下に、『日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」』より引用します(青字は引用した個所)。

イワレヒコは、「戦いを重ねたが仲々勝つことができなかった。そのとき急に空が暗くなってきて、雹が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄とびが飛んできて、天皇の弓の先にとまった。その鵄とびは光り輝いていて、まるで雷光のようであった。このため長髄彦の軍勢は、皆、眩惑されてしまい力を発揮できなかった。

長髄(ながすね)というのはもと邑むら(村・領地)の名であり、それを人名とした。

皇軍が鵄(とび)の瑞兆を得たことから、当時の人たちは鵄の邑(とびのむら)と名づけた。
現在、鳥見(とみ)というのは、これが訛ったものである。」


時に、長髄彦は使者を送って、天皇に言上し、
「昔、天神の御子が、天磐船(あめのいわふね)に乗って天降られました。櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)といいます。この人が我が妹の三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を娶とって子ができました。名を可美真手命(ウマシマデノミコト)といいます。それで私は、饒速日命を君として仕えています。一体、天つ神の子は二人おられるのですか? どうしてまた、天つ神の子と名乗って、人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、それは偽者でしょう」

天皇が答えた。
「天つ神の子は多くいる。お前が君とする人が、本当に天つ神の子ならば、必ず表(しるし、証拠)があるだろう。それを示しなさい」

長髄彦は、饒速日命の天羽羽矢(あまのははや、蛇の呪力を負った矢)と、歩靭(かちゆき、徒歩で弓を射る時に使うヤナグイ)を天皇に示した。

これを天皇はご覧になって、
「偽りではない」
と言われ、帰って所持の天羽羽矢一本と、歩靭を長髄彦に示された。
長髄彦はその天つ神の表を見て、ますます恐れ、畏まった。

けれども、兵器の用意はすっかり構えられ、中途で止めることは難しい。
そして、間違った考えを捨てず、改心の気持ちがなかった。

饒速日命は、天つ神たちが深く心配されているのは、天孫のことだけであることを知っていた。
長髄彦は、性格が捻れたところがあり、天つ神と人とは全く異なるのだと教えても理解しそうもなかったため、饒速日命により殺害された。

そして、饒速日命はその部下達を率いて帰順された。
天皇は饒速日命が天から下ってきたということが分かり、今ここに忠誠を尽くしたので、これを褒めて寵愛された。これが物部氏の先祖である。


イワレヒコはナガスネヒコとの決戦に至るまでに多くの敵に散々苦しめられましたが、その都度、天つ神の助けによって敵を滅ぼすことができました(即位までの模様は日本書紀・日本語訳「第三巻:神武天皇」を参照)。多くの方は誤解されているかも知れませんが、皇軍が圧倒的な大軍勢で敵を大いに討って大和を征服したという英雄譚ではないのです。勝利の過程も、投降した敵を酒に酔わせて騙し討ちにしたり、敵の屍体を斬って辺りを血だらけにするなどは、とても日本人の発想ではないものです。そして、すでに大和に降臨していた饒速日命(ニギハヤヒ)が、その臣下で義理の兄でもある長髄彦を裏切って殺したことによりもたらされた勝利でした。

なぜニギハヤヒがナガスネヒコを殺さねばならないのかの理由が上で説明されていますが、このような不合理な説明ではとても納得できません。ナガスネヒコは自らニギハヤヒを主君としていると言っていますので、イワレヒコに恭順するように饒速日命から命じられれば、いくら戦う準備が整っていたとしても長髄彦は命令に従わない理屈はありません。また、天照大神もはじめから、先に降臨している天孫のニギハヤヒに命じれば、ヤマトでの戦闘など起こりようがありません。

ヤマト王権が成立したのは三世紀の纏向遺跡であることは、ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の存在によって分かっています。ですから神武東征が史実であるならば考古学上の証拠があるはずですが、これも見つかっていることも聞きません。三世紀のヤマトでは戦乱の痕跡が全くありません。纏向遺跡も防御的な環濠集落ではない、突然建設され、九州を除く多くの地方から首長クラスの人々が集合して祭祀を行う政治都市というのが特徴です。さらに、ヤマトから九州や各地に遠征して、日本が統一されたことも考古学の成果から分かります(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。ですから、「日本書紀」で創作されたおとぎ話というのが常識的な見方になるはずです。しかし、最近になって保守層が初代神武天皇は存在したはずだから、史実だという主張がされるようになっていますが、学術的には相手にされることはありません。

ではなぜ「日本書紀」で荒唐無稽なおとぎ話のような神武東征神話を挿入したのかを考えると、日本の建国の史実を隠す編者の目的が見えてきます。編者は天武天皇の皇子だった舎人親王となっていますが、日本書紀完成当時の権力を握っていたのは藤原不比等でした(「神話が隠した不自然な史実」参照)。大宝元年(701年)文武天皇の命により編纂された大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃った本格的な律令です。この律令体制で藤原氏の権力を将来に渡って維持するためには、神祇祭祀で日本建国で活躍した有力な氏族が復活するのは不都合ですので、建国の史実を隠し、藤原氏(中臣氏から分かれたことになっている)の遠祖に活躍させるために改ざんする必要があったのです。不比等は各地の有力豪族が祀る神社の祭神や社名まで強引に変えさせています(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)

崇神天皇の御宇に大物主大神(大国主)の祟りがあって民が半数以上亡くなりました。大神の神託で子の大田田根子(オオタタネコ)に自分を祀らせれば治まるということなので、オオタタネコを探し出して祀らせたという記事が初代天皇の史実に近いのではないかと関裕二氏が推理しました。尾張王建稲種命(タケイナダネ)が九州遠征して父の仇討ちで大国主・台与らを討ち、倭国全体を支配下にして日本が建国されたことを突き止めました。しかし、280年に後ろ盾にしていたと思われる呉が西晋によって滅ぼされ、呉の難民が同族である倭人の日本(狗奴国)を頼って落ち延びてきたと思われます。西晋に朝貢していた大国主・台与の倭国を日本が滅ぼしたので、次に西晋に滅ぼされると皆、動揺したのだと推理できます。そこで、大国主と台与の子ホムダワケを祭祀王に推戴し、日本は邪馬台国(ヤマト)の後継国ということにしたと推理しました。そのために、日本の首都の纏向遺跡をヤマトと呼んだのです。

ですから藤原氏にとって都合の悪い建国の史実を隠すために不比等は初代神武天皇のおとぎ話を挿入したのです。つまり、すでにヤマトに降臨していた天孫ニギハヤヒというのは、ニギハヤヒの子孫の狗奴国王卑弓弥呼(ヒコミコ、記紀の崇神天皇)や尾張王建稲種命(記紀の景行天皇)のことです。

ニギハヤヒに殺されたナガスネヒコは、wiki「長髄彦」によれば、『日本書紀』では長髄彦であるが、『古事記』では那賀須泥毘古、また登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)とも表記される。とあります。

日本書紀では誤魔化すために上で見たように、イワレヒコを助ける金色の鵄(トビ)を登場させて、さらに鳥見(トミ)はトビがなまった地名と誤魔化していますが、古事記がトビ(トミ)はトミヒコ=ナガスネヒコで、大国主久々遅彦のことだというヒントをくれたのです。魏志倭人伝に狗古智卑狗が狗奴国の官とあるように吉備で奴国を再興したニギハヤヒ大王の家臣ということです。その子孫の狗奴国王を裏切って、魏を後ろ盾にして倭国王になって列島の主要部をほとんど支配下に置いたので後世に、奴国王を意味するトビ(トミ)(奴国王=竜王=龍神)と呼ばれるようになったのです(注1)。そのトビがニギハヤヒに討たれて初代天皇が即位したということを古事記が示唆していました。大国主を祖とする富氏はまさに竜王(トビ)の子孫です。富氏の伝承は朝廷に配慮した内容になっているようですが、祖先とするクナトの神はサルタヒコ、アラハバキという女神は弁財天(卑弥呼)ではなく、台与のことです(「富氏・登美氏・トビ氏(向家文献)」(まじゅらーしんかぶら 2020年 12月 25日)参照)。

やっぱり、なんらかの史実をもとにしないと、おとぎ話は創れないということなのですよね(^_-)-☆

ところで、下の図は東南アジアに生息するトビヘビと呼ばれるへびです。竜王をトビというのはここから来たのかも知れないと考えていますが、トビは日本語のようですから、どうなんでしょうか?東南アジアの言語に詳しい方、お教えください(^^)/




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(注1)記紀では大国主としましたが、富来隆「トビ・トミ=ナガ=蛇神=化して鳥(トビ)」によれば『トビ(トベ)とは、サカ(ナカ)・ナガラ(ナガオ)とともに「蛇神」をさす呼称である』とされています(大国主はトビヘビだった」、「竜王の正体はだれ?」参照)

【おまけ】
それで思い出しましたが、箸墓の被葬者は大物主の妻ヤマトトトビモモソヒメという早口言葉みたいな名前です。その意味はヤマトとトビ(大国主)を百襲(ももそ)、つまり何度も何度も唱える姫という名前です。たった13歳で大国主の妃にされ、結局はヤマトに殺された気の毒な姫だから、きっと恨んでいるのだろうと後世の人か、日本書紀の編者が台与を憐れんでつけた名前だと推理しました。かごめ歌も台与の歌ですよ(「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」「悲劇の女王台与のはなし(その4)」参照)。

朝廷は台与の祟りをとても恐れていましたので、不比等は鎮魂の意味もあって、台与をモデルとして仲哀天皇の皇子たちを武力で排除して応神天皇を即位させた神功皇后という女傑を創作したのですよ。そして、高齢の大国主を神功皇后の傍らで仕える武内宿禰としたのです。台与が祝女(はふりめ、巫女)で、大国主の久々遅彦という名前が、台与に憑依した神の神託を聞き取る役目の祝(はふり)・巫(かんなぎ)を意味する名前なのです(「悲劇の女王台与のはなし(その3)」参照)。

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