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古代史ランキング
#2024-04-18 12:24:16に記事にしましたが、その後に直ぐに次の記事をアップしたので、あまり見られていないようなので、再度アップしました。よろしければご覧ください(;^ω^)。
#興味ある富雄丸山古墳の被葬者について記紀の神武東征神話から推理している動画を見つけましたが、神武天皇は本当の初代応神天皇の虚像ですので、私見をコメントしました。さらに日本書紀に隠された二人の天皇について推論しました。よろしければお付き合いください(;^ω^)
【富雄丸山古墳】古墳の主は誰?空白の4世紀解明へ!【1600年前の真実】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】@YouTube 2024.4.16
00:00 オープニング
00:55 富雄丸山古墳で相次ぐ国宝級の大発見!
04:28 未盗掘の木棺から青銅鏡り堅櫛を発見!
09:36 富雄川流域は長髄彦の支配地だった!?
13:55 古代ヤマト王権「水銀朱」をめぐる錬金術
多くの皆さんは記紀が天皇の歴史書だと習っていますが、日本書紀が成立したのは天武天皇崩御の34年後です。時の権力者は藤原不比等でした。妃の鵜野讃良(持統天皇とされたが実は即位していないと推理)と組んで天武天皇の優秀な皇子たちを排除して、皇位を簒奪して権力を握ったのです。その悪事を隠し、3世紀の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の勢力を抑え、自らの祖神を活躍させる神話まで創作し、天皇家すら貶めて藤原氏の権力の正統性を主張するために創った勝者藤原氏の歴史書だったのですよ。
日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、実は9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長が突然表に出してきたものです。正史にも古事記の記録がないし、日本書紀が古事記を参照したと分かる痕跡もないのです。(2024.8.29 赤字追加)人長の創作なのですが、天皇の歴史書だと思い込んでいるので気づけないのです。
古事記は日本書紀が隠した史実を藤原氏に悟られないようにして暴露するための暗号書だったのです。
建国の史実から古事記の暗号を解くと空白の4世紀から倭の五王の時代が解明できました。初代天皇は大国主(龍神トビヒコ、武内宿禰、日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦)と女王台与(記紀の神功皇后のモデル、近江・北陸を拠点とするムナカタ族の姫巫女)の子の応神天皇です。狗奴国ヤマト勢に殺された両親の鎮魂のために纏向に呼ばれたヤマトの初代祭祀王(崇神天皇紀の大田田根子)です。神武天皇は史実を誤魔化すために創作された初代応神天皇の虚像です。
富雄丸山古墳の被葬者は、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(宇治天皇として即位していた)と推理しました。母が卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)の弟赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)の娘宮主宅媛なのです。
オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺され皇位を奪われたので、和邇氏の支配地でひっそりと葬られたのです。富雄の地名はトビ(大国主)の尾(子孫)という意味です。丸山の丸は和邇ですので和邇氏の墓を意味します。卑弥呼も弟赤坂比古も父先代赤坂比古もすべて巨大円墳に葬られています。
仁徳天皇の母仲姫命は記紀では景行天皇皇曾孫ですが、景行天皇のモデルの尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、ヤマトタケルのモデル)の子孫です。卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)と同じニギハヤヒ大王(楯築王墓の被葬者)の子孫です。大和盆地は大国主傘下の敵対勢力ばかりなので、ニギハヤヒ大王に所縁の氏族の拠点の河内・和泉で即位した模様です。詳しくは「【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆」をご参照ください。和爾氏を隠さねばならない理由も分かりました。これが日本書紀のメインテーマだったのです。長々とお邪魔しました(#^.^#)
日本建国の史実は247年の卑弥呼の死後に倭国追討軍の主将尾張王乎止与命(ニギハヤヒ大王の子孫)が狗奴国を裏切って倭国王に立ったので、それに不満のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(豊岡市久久比神社祭神久々遅彦、最後の奴国王スサノヲの子孫、先代は戦死と推理)と内戦になりました。久々遅彦は卑弥呼の弟赤坂比古が助太刀して尾張王を討ち、内戦に勝利し、狗奴国を裏切って日本列島の大半を支配したので記紀神話で大国主命と呼ばれました。父を殺された尾張王建稲種命(記紀神話のタケミカズチ)が父の敵討ちで大国主・台与そして赤坂比古を討ち、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)が日本を統一しました。
しかし、狗奴国の後ろ盾だったと推理した孫呉が280年に西晋に滅ぼされたので、女王台与の倭国を滅ぼしたために西晋に追討されることを怖れました。大国主と台与の祟りと考えた卑弥弓呼大王は二人の子を鎮魂のために纏向に呼んで祭祀王とし、国名もヤマト(邪馬台国)としたのです。これが初代応神天皇即位の史実だと推理しました。
応神天皇は265年に生まれたと古事記の崩年干支から推理したました。父の大国主は247年頃に13歳の台与を外交上卑弥呼の後継の女王とし、その後妃としましたので、応神天皇は末子ではないかと考えられます。兄が戦死していなければいたはずですが記録は残っていないようです。
卑弥弓呼大王は大国主系氏族との融和を図るために、応神天皇の妃として尾張王建稲種命の子尾綱根命の三人姉妹を嫁がせたと考えています。次女の仲姫命が295年に長男オオサザキ(仁徳天皇)を産みましたので、皇后とされ、オオサザキを世継ぎと決めたのだと推理しました。長女高城入姫命も同時に輿入れしたと思いますが、日本書紀は仲姫命が長女よりもひと月後に妃になったとしています。応神天皇崩御後に反乱を起こす大山守命を産んでいます。三女弟姫命は4人の皇女を産んでいますが、皇子はいませんでした。
弥生時代の大和盆地の拠点集落の唐古・鍵遺跡の出土品から見て、大国主の配下の縄文系ムナカタ族が開発したと推理できますので、ヤマトの大王となった応神天皇の父の大国主の一族に大和盆地を支配させたと推理しました。大和盆地北部を支配地とする和邇氏は卑弥呼の弟赤坂比古(記紀の日触使主)の娘宮主宅媛を入内させて299年に菟道稚郎子が生まれたと考えました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)」参照)。
崇神天皇は日本書紀では辛卯年崩御とありますので紀元前30年という計算になりますが、崇神天皇のモデル卑弥弓呼大王の崩御は、3世紀末か4世紀初頭と考えられますので、古事記の戌寅年とすると318年が正しいと考えられます。天理市柳本町の全長250mの前方後円墳「行燈山古墳」に葬られたと考えています。
応神天皇は334年に崩御したと推理していますが、「真の応神天皇陵を推理する!」で述べたとおり、日本書紀で景行天皇陵とされた全長300mの巨大前方後円墳「渋谷向山古墳」だと推理しています。景行天皇とされた建稲種命の墓は「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」で推理しましたが、大和盆地では天理市の全長183mの前方後方墳「西山古墳」と推理しています。後方部の中段から上は前方後円形となる特殊な墳形をしていますので分かります。
宇治天皇が即位すると、母方の和邇氏が隆盛になり、卑弥呼に所縁の豊前地方や倭国大乱期に一族が住んだ肥後などを支配し、さらに卑弥呼の弟赤坂比古が殺された恨みから尾張王の領土まで侵入した模様なので(注)、尾張王の一族がオオサザキ(仁徳天皇)を立て和邇氏と対立し、宇治天皇を暗殺したと推理しました。仁徳天皇は敵対勢力の多い大和盆地を出て、元々ニギハヤヒ大王の一族が移り住んだ河内・和泉を拠点としました。仁徳天皇が崩御すると対立する両勢力の和解のために宇治天皇の妹八田皇女の子住吉仲津比古が住吉(すみのえ)天皇として即位しました。ところが、高句麗が半島南部の百済・任那・新羅を圧迫するようになり、倭国が鉄資源を確保するために半島南部で高句麗と対立するようになります。新羅に縁のある和邇氏が主導権を取り戻し、半島を支援するために王権強化のために、物部・尾張のニギハヤヒ大王系の氏族を締め付けた模様です。『晋書』安帝紀・『太平御覧』に413年に東晋の安帝に貢献した記録がありますが住吉天皇の事績と考えられます。好太王碑に半島での高句麗と倭国の抗争の模様が以下のとおり記されています。
百済・新羅はもと高句麗に服属する民で、これまで高句麗に朝貢してきた。ところが、倭が辛卯の年(三九一)以来、海をこえて襲来し、百済や新羅などを破り、臣民とした。そこで好太王は、三九六年にみずから水軍をひきいて百済を討伐した。…百済王は困って好太王に降伏して自ら誓った。「これからのちは永くあなたの奴隷になりましょう」と。…三九九年、百済はさきの誓約をやぶって倭と通じたので、好太王は平壌へ行った。そのとき新羅は使いを送ってきて好太王に告げた。「倭人が国境地帯に満ちあふれ、城を攻めおとし、新羅を倭の民にしてしまいました。私たちは王に従ってその指示をあおぎたいのです」と。…四〇〇年、好太王は歩兵と騎兵あわせて五万の兵を派遣して新羅を救わせた。その軍が男居城から新羅城に行ってみると、倭の兵がその中に満ちていたが、高句麗軍が到着すると、退却した[9]。
— 好太王碑
[9]野呂肖生・笠原一男『史料による日本史』山川出版社、2007年1月1日、4-5頁。ISBN 978-4-634-02023-8。
新羅の源流の辰韓時代には奴国大王スサノヲをモデルとする脱解王の一族が支配していましたが、新羅も百済ももとは高句麗と同じ扶余族です。「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で述べたように、元々は楚人(シナ人系O2)や倭人(O-47z)の集団の濊(かい)人が出自と考えています。恐らく高句麗は楚人が扶余から分裂し、北東アジアでツングース系の人々と共に活動した騎馬民族の集団ではないかと考えています。
(注)名古屋市南区鳥栖は卑弥呼の父赤坂比古の支配した佐賀県鳥栖市と同じ地名で、神明社(鳥栖)の多数の祭神の中に五男三女神(ごなんさんじょしん)がありますので、和邇氏の祖神である宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼を祀っていると考えられます。地元ではこれを誤魔化すために「とりす」と呼んでいます。
また、『延喜式』神名帳(927年)の山田郡和爾良神社の論社のひとつ名古屋市名東区和爾良神社(わにらじんじゃ)で応神天皇時代に百済から渡来し、千字文を伝え、菟道稚郎子の家庭教師となったとされる王仁吉師(わにきし)を祀っています(王仁吉師は架空の人物という説が有力です)。尾張王を殺した和邇氏が良いという名前の神社ですが、地元では尾張王が仇討ちしたのだから、当時の尾張のトレードマークの「かに」の尾張王が良いという意味で「かにらじんや」と呼んでいると推理しました。正解は論社の一つ長久手市「景行天皇社」だと推理しています。(詳細は「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)~(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」参照)。
和爾氏は藤原氏によって没落させられて、大和盆地の領地を奪われ、春日大社に尾張王建稲種命である国譲り神話の英雄タケミカズチとともに比売神を祀っています。天児屋根命の妻で天照大御神という説まであるようですが、卑弥呼のことでしょう!藤原氏は徹底的に隠した尾張王や卑弥呼の祟りを怖れ、ゴメンナサイという気持ちで祀っていたのでしょうね(;´Д`)
【関連記事】
空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)
【刮目天の古代史】目からウロコの大発見?
6.日本建国の謎
②景行天皇の九州遠征の史実は、尾張王建稲種命の父の仇討だった
④狗奴国がヤマトになったのは大国主の祟りだった
【発見!】卑弥呼の墓(^_-)-☆
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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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