いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング
#2022-11-21 07:16:47に記事にしましたが、濊人(「わいじん」ではなく、本当は「かいじん」)が縄文人系(D-M55)と考えていましたが、塚田敬章「堂谿氏(秦氏の源流)」 2014.10.10 によれば戦国時代に秦に滅ぼされた韓や楚の人々(シナ人系O2)で、その中には江南系の倭人(O-47z)が居たと分かりましたので改訂しました。よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)
#興味ある話題がYouTubeに出ていたのでコメントしました。そしたらある方から反論がありましたので、お返事しました。お付き合いください(#^.^#)
刮目天
大変興味ある話題を上手に説明していただき、ありがとうございます。ここで出てくる縄文人・弥生人・古墳人という分類はあまりよくないと思います。例えば古墳人のルーツってすぐには分かりません。古墳時代の日本列島に住んだ人々という定義であれば、もっとルーツが分かる名称で議論すべきでしょう。弥生人も同様です。古墳人というのは、それまでに流入してきた人々などの混血ですから、ほとんど現代日本人のことですよ。
縄文時代に列島に住んだ縄文人もルーツの違う人々が入ってきています。①の縄文人と弥生時代までに②北東アジア人が入ってきて混血したと説明されていますが、①の縄文人の父系のルーツに列島固有のD-M55だけではなく、北方アジアから来たC2が3%、同様にCーM8は2%で、三内丸山遺跡を営んだと考えられる遼河人Nは1%以下というのがわかります。女性についてはmtDNA解析から各種渡来系が入って来たと分かります。(注1)
③の東アジアから来た人々が倭人(O-47z)と呼ばれ、水田稲作を半島南部を経由して列島に持ち込んだことが分かっています。現在の韓国人の男性のルーツは紀元前3世紀の中国戦国時代の戦争難民のシナ人(O2)が約40%、紀元前11世紀に遼東半島から平壌辺りに展開した殷(商)人系(箕子朝鮮)も約33%ですので、半島の南部は紀元前11世紀ごろから倭人と縄文人が住んでおり、そこで混血もしていたはずです。
詳しくは拙ブログ「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」「日本列島に集まった人々とは?」に詳しく解説しましたので、是非ご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )
魔神NAO
それ、ハントー人の説では?
DNAで否定されてるはず。
いや混ざってるな。
ハントー人の説と日本人の説
混ぜこちゃになってます。
ハントー人はワイ族えべんきですよ。
確かに後から来た中国の人が混ざってますが。
紀元前の時のは違いますよ。
後ルートは
全く違いますよ。
DNAで否定されています。
刮目天
@魔神NAO さん 「ハントー人はワイ族えべんきですよ。」というのは間違ってますよ。上であげた拙ブログをご参照ください。濊(カイ)人は古くから半島北部や東部に来ていたようですが、文献に出てくるのは3世紀の三国志でしょう。彼らはシナ人や江南の倭人と同じ祖先をもつ人々で、半島北部で箕子朝鮮の人々(殷(商)人系O1b2からOー47zを除いた)と同様に陸稲を栽培していたようです(注2)。(2024.4.16 赤字訂正)
半島の東海岸や南部の沿岸部には列島から縄文海人ムナカタ族が来てました。上で述べた江南の倭人と接触し、多分混血していたと思います。江南系・縄文系の倭人が列島に水田稲作を持ち込んだということです。ですから、列島と半島とどっちが先だということはあんまり問題にならないのです。どちらも倭人系ですからね。
「確かに後から来た中国の人が混ざってますが。」はそのとおりですが、上の図から朝鮮民族の縄文人系D-M55と倭人O-47zは共に4%しかいませんから、男性は皆殺しにあったという説があります。しかし、4世紀ごろから半島西南部から南部に居た百済・加羅の倭人が半島東部の新羅(シナ人系や殷(商)人系)の人々と対立し、白村江の戦い(663年)で唐との連合軍に敗けて、半島に居たほとんどの倭人が日本列島に移住したということでしょう)。現代朝鮮民族の人々の顔形が現代日本人とよく似ていますが、それまでに半島内のシナ人や殷(商)人系の人々と倭人が混血していたからと考えられます。詳しくは拙ブログ「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」「【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?」を参照してください(#^.^#)(2024.4.16 赤字改訂)
【関連記事】
古墳人が現代日本人に近いの?
(2021年9月21日 金沢大学 > 研究トピック > パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造 より)
(注1)上の図の縄文人・弥生人の構成もおかしいということが、父系のルーツが分かるYーDNAや母系のルーツが分かるmtDNA分析結果からも分かります。また古墳時代に突然、東アジア祖先の人々が急激に増えているという金沢大学の研究成果はサンプル数が十分ではないと思います(^_-)-☆(2024.4.16 赤字追加)
(注2)濊人(かいじん)はシナ人から酷い意味の漢字の名前にされましたが、
半島の古代史だ!(漢四郡まで)で以下のように説明したとおり、北東アジア人系(C2)の人々ではなく、シナ人系(O2)や倭人系の人々のようです。扶余族も濊人の一部が半島北東部で分かれた人々で、更に扶余から高句麗と百済が分かれていますので、どちらも北方アジア人系(C2)ではなくシナ人系O2と倭人系(O-47z)でした。特に、百済は倭人系ですので、4世紀から倭国(日本)が支援していたのです。ただ、半島内の新羅と百済の対立は、日本の中の新羅の源流の辰韓を支配したスサノヲ・大国主系勢力(和邇・息長)と百済と親密な関係のニギハヤヒ大王系勢力(物部・尾張)の権力闘争が大きく作用した結果だと考えています。両者の敵対関係の構造は3世紀後半の日本建国時代に生じた確執が原因だったようです。
②紀元前223年に楚が秦に滅ぼされ、紀元前221年に秦が統一を果たした。秦始皇帝は匈奴などの北方民族の侵入を防ぐために紀元前214年から万里の長城の建設を始めた。すでに銅・鉄の鉱山と優れた金属器の生産地とされていた堂谿(どうけい)の地を「楚」より得ていた呉の夫概(呉王闔閭(こうりょ)の弟、初代呉王太伯の末裔、原始夏人系O1a)の一族は、紀元前四世紀には韓に属しても「楚」が滅ぶまで堂谿公となっていたが、その後長城建設に従事させられたようだ。紀元前210年に始皇帝が崩御すると、その後の混乱によって遼東に逃げて濊(かい)を建国した(楚人はシナ人系O2,熊をトーテムとする民族なので、檀君神話の人々)。後に前漢の武帝が東夷に進出すると、濊の主力(北扶余)は北に逃げ、解慕漱(かいぼそ)が先住民を吸収して扶余(北扶余)を建国したとの伝説がある。扶余の祖先は呉公子夫概という伝承がある(紀元前1世紀ころ高句麗が扶余から分かれた)。濊王之印を持つ。濊(東扶余)に属す堂谿出身の製鉄・冶金技術者はその場にとどまり鉄器の生産を行った。濊の一部(後の百済人)は馬韓に合流した。同様に倭人系(O-47z)の堂谿出身者は辰韓や弁辰の倭人と混ざって鉄器の生産に従事し、倭人を指導した。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング